天皇陛下とのある思い出

2019-04-30 10:37:47

新華社世界問題研究センター研究員 張煥利=文

 

明仁天皇陛下が今年4月30日、退位される。日本では約200年ぶりの天皇の退位となる。このニュースに、私は新華社の記者として日本に駐在していた頃の、明仁天皇陛下とのある「出会い」を思い出した。

 

平成の始まり告げる伝統儀式

 1989(昭和64)年1月7日、裕仁天皇(昭和天皇)が亡くなられた。同日、都内にある皇居宮殿の松の間では、「剣璽等承継の儀」が行われ、当時の明仁皇太子が皇位を継承した。これは天皇の即位に関する儀式の一つで、歴代伝わる剣(天叢雲剣=あめのむらくものつるぎ)や璽(八尺瓊勾玉=やさかにのまがたま)などを承継する。翌8日、元号は平成と改められた。平成の出典は、中国の「史記」五帝本紀にある「内平外成」(内平らかに外成る)と、「尚書」大禹謨の「地平天成」(地平らかに天成る)で、「国の内外、天地ともに平和が達成される」ことを表している。こうして実質62年続いた昭和時代は終わった。続く平成時代もすでに31年となる。

 明仁皇太子が新天皇として即位されたその年、公に即位を宣言する「即位の礼」は行われず、平成2年(1990年)に行われた。この皇位継承に伴う一連の祭儀は、同年の11月から12月まで約2カ月続いた。その中で最も重要なのが「即位礼正殿の儀」だ。これは国の内外に即位を宣明する儀式で、初めて行われた。内外の主なメディア記者たちは、初めて皇位継承の儀式を直接取材する機会を得た。私と同僚の蘭紅光は、新華社の書き手とカメラマンとして、皇居での儀式で明仁天皇陛下と皇后陛下の美智子さまを取材した。「即位の礼」は、明治大正昭和の各天皇までは京都御所の紫宸殿で行われていた。今回は1990年1112日、都内の皇居宮殿の松の間で行われた。

 「即位礼正殿の儀」の後、天皇皇后両陛下はオープンカーで皇居前広場からお住まいのあった赤坂御所までパレードされ、沿道に詰め掛けた人々から祝福を受けた。

 

思わぬ幸運でスクープ写真!

 取材規制線の中で、記者たちはベストポジションを求めて場所取り合戦を繰り広げていた。私の所から蘭紅光までは3、4ほど。われわれは他社の記者たちと同じように、カメラを手に車がやって来るのを待ち構えていた……。

 しばらくすると、天皇皇后両陛下を乗せたオープンカーがゆっくりと観衆の視野に入ってきた。オープンカーの両陛下は、常に左右に分かれ祝福する両側の群集に満遍なく手を振る。しかし私がいる規制線の中からは、両陛下が一緒に同じ方向を向いた写真を撮るのは難しい。

 ところが、両陛下の車が近くまで来た時、お二人は期せずして同時に視線をわれわれの方に向けた。私はすぐさま近くの蘭紅光に目配せした。彼も応え、素早く器材を抱えてやって来た。まさにその時、両陛下が同時にこちらに向かって手を振り、ピッタリのタイミングで貴重な瞬間を収めることができた。

 新天皇の「即位の礼」が終わり、私と蘭紅光は皇居を離れた。新華社東京支局への帰途、われわれは空腹で腹がグーグー鳴るのも忘れ、皇居での丸一日に及んだ取材の成功を喜び語り合った。

 その後、私は日本を含めたほとんどのメディアは、蘭紅光が撮ったこのカットを使ったことを知った。多くの記者は、われわれのような幸運には恵まれず、両陛下が同じ方を向いた写真を撮れなかった。ある友人は、「あの時、たぶん明仁天皇陛下は沿道に自分によく似た男がいるのに気付いて、皇后陛下と2人でご覧になったんだろうな」と私をからかった。

 

即位の礼の後、祝福に詰め掛けた沿道の観衆に向かって手を振る天皇皇后両陛下。蘭紅光 カメラマンが撮ったこの写真が世界に配信された(19901112日、皇居前広場で、新華社)

 

歴史的な天皇訪中で友好加速

 明仁天皇の即位後、いわゆる皇室外交が展開された。最も注目されたのは、天皇皇后両陛下が1992年に中日国交正常化20周年を記念し、同年の102328日に中国を公式訪問されたことだ。これは、中日両国の交流史上、初めてかつ唯一の日本の天皇の中国訪問だ。両陛下は北京を訪れた後、古都西安を訪問。西安の碑林博物館では、自ら「平成」という年号の出典を探され、65万字以上の中からついに「地平天成」の4文字を見つけられた。両陛下の訪中成功は、中日関係の改善に大きな役割を果たした。

 両陛下が北京に到着された1023日の晩。NHK(日本放送協会)テレビから、新華社東京支局に私を迎える1台の車がやって来た。私はNHKの番組に出演し、スタジオで天皇陛下の訪中の意義を語った。その模様は日本と世界に向けて放送された。

 私は日本が始めた中国への侵略戦争の歴史問題について答えるとともに、中国は礼儀を重んじる国なので、天皇陛下の訪中は必ず中国の人々から熱烈な歓迎を受けるだろうと話した。

 また天皇陛下の訪中は、中日の歴史の上で大きな出来事であり、この訪問が中日の友好事業の礎となり、中日関係の21世紀に向けた新たな出発点となるだろう――と語った。

 翌日、ちょうど英国のロンドンに出張していた日本の友人のS氏から電話があった。彼は、「NHKの衛星放送で天皇陛下の訪中の番組を見ていたら、張さんが天皇訪中の意義を語っているのを見て、本当にうれしかったよ」と声を弾ませていた。

 

935月に都内で開かれた中国国画展を取材中の筆者(中)(写真提供張煥利氏)

 

陛下に「そっくり」が幸い

 その後、確か93年だっただろうか。日本に留学中だった私の息子が、日本の友人の紹介で、都内の武蔵野市吉祥寺に小さな部屋を借りようとした時のことだ。不動産会社で契約手続きをする際、日本人の保証人がなければ駄目だと会社側が言ってきた。そこで、私はこの会社に行き、私はこの留学生の父親で、東京で働いており、私が保証する――これ以上の信用はないだろうと訴えた。しかし会社側は、それでも認めてくれなかった。

 さらに説明しようとした時、年配の女性店長がじっと私を見ながら聞いてきた。「あなたは、NHKテレビで天皇陛下の訪中について話していた新華社の記者の張さんじゃないですか」

 「そうです。新華社の張です」。私がそう答えると、その店長は「それなら大丈夫です。保証人として問題ありません。テレビでお話しされただけでなく、実際、陛下にそっくりですね」と愉快そうに話した。

 時は過ぎて97年。中日友好協会の肖向前副会長らの訪日団に同行し、私は九州福岡市内のホテルに宿泊していた。

 ある晩、明るく輝く福岡一の繁華街天神の地下街を散策していた時、前から40過ぎぐらいの一人の男性が近づいてきた。そして、笑みを浮かべながら握手を求めてきた。私は誰か思い出せずにいたところ、相手は私をよく知っているように、こう話し掛けてきた。「あなたは、以前にNHKで天皇訪中を解説していた張さんではないですか。やはり陛下にそっくりですね。これからもお仕事がんばってください」

 即位の取材から約30年。今や明仁天皇陛下は85歳、私も74歳となった。当然、顔形も変わるものだが、今でも私は陛下に似ていると、日本人も中国人も口をそろえる。他人の空似ではあるが、それで私も周りも全て心が和み愉快になる。その感謝の気持ちを込め、陛下には一言、「お疲れさまでした」とお伝えしたい。

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