百年の名声留める梅蘭芳~日本を席巻した1919年初公演~

2019-06-17 16:56:28

王朝陽=文

梅蘭芳記念館=写真提供

京劇は中国文化の精華として、今では多くの海外公演が行われ、世界中にファンがいる。その海外公演の先駆けとなったのは、不世出の京劇役者として知られる梅蘭芳(1894~1961年)による1919年5月の日本公演だ。当時、梅蘭芳はまだ25歳だったが、その深い芸術性と絢爛とした東洋の美は日本の観衆に大きな感動を呼び、京劇の一大ブームを巻き起こした。また、五四運動という歴史の激流と重なり、中日両国民の感情が日増しに冷え込む中、この公演はつかの間の温もりをもたらした。

 

梅蘭芳の日本公演の一行が1919425日、東京駅に到着。プラットホームに詰め掛けた記者たちにもみくちゃにされる梅蘭芳(中央)

 

大成功だった初の日本公演

 京劇の役で旦(女形)を演じる梅蘭芳は当時、中国では大変な売れっ子で、熱狂的なファンも数え切れなかった。その一人が、中国銀行総裁(当時)の馮耿光だ。馮氏は、重要な客を自宅に招いて開くパーティーでは、必ず梅蘭芳を呼び、京劇の一節を歌ってもらい賓客をもてなしたという。

 日本の帝国劇場の社長で大倉財閥の創始者・大倉喜八郎は、馮耿光を通して梅蘭芳の京劇を見て以来、梅蘭芳が開いた流派「梅派」の虜となった。それは大倉が北京を訪問した1918年のことだ。もともと馮耿光とは仕事の話だけだったのが、一緒に梅蘭芳の京劇を何度も鑑賞するうちに、大倉はすっかり京劇に魅せられてしまった。大倉は同年、自ら再び北京に梅蘭芳を訪ね、ひと月5万円(現在の約3千万円)という高額の出演料で日本公演を招請した。

 大倉からの誘いを承諾した梅蘭芳は、劇団員一行35人を引き連れ19年4月21日、日本に向け出発。25日夜、東京駅に到着した。さっそく5月1日から巡回公演が始まる。幕開けは大倉喜八郎の帝国劇場だった。それまで日本で京劇の公演はなかったため、この公演が成功するかどうか、利益が出るのか、招請した大倉も自信がなかった。そこで大倉は、公演が成功するよう財界の後押しを考え、当時の大財閥や実業家、政治家らによる梅蘭芳の後援会を結成した。

 この後援会は、単に経済的な援護だけでなく、タイムリーに大規模な宣伝を打つといった形でも支えた。梅蘭芳の日本公演の2カ月前から、日本の各新聞に次々と広告や記事を掲載。日本の中国通たちが、中国の伝統芸についての論評を続々と発表し、梅蘭芳の京劇を紹介した。公演が始まると、梅蘭芳に対する劇評は賞賛の嵐となった。

 特に梅蘭芳のおはこの演目『天女散花』は喝采を浴びた。これは仏教の故事が題材で、天女が人間界に舞い降りて病に伏す修業者を見舞うという話。天女に扮した梅蘭芳が、天から赤や白など色とりどりの花が降り注ぐ中、長い羽衣を翻し優雅に舞い踊る絢爛豪華な場面は、各方面から激賞された。公演終了後に回顧する評論も発表され、梅蘭芳の日本公演は興味の尽きない話題となった。

 

日本公演での代表的な演目『天女散花』の梅蘭芳(左から2人目)

梅蘭芳の素晴らしい公演と大宣伝の効果も相まって、一番良い席の料金は当時(大正)の新任小学校教師1カ月分の給料分にも跳ね上がったという。それでも大人気の梅蘭芳を一目見ようという客たちで、公演は毎回満員御礼となった。また、一度では飽き足らず何度も観劇する客も多かった。このため、当初は5月1日から10日までの公演日程だったのが、2日間の追加公演を行うことになった。当時の日本の作家や画家、茶道家、学者、政治家などの著名人は、帝国劇場で京劇を鑑賞しては皆が絶賛した。当時の総理大臣だった原敬の日記にも、5月12日に観劇の感想が書かれている。

 多くの日本の観客は、それまで京劇を見たことがなかった。だが、梅蘭芳の公演を見た者は皆、中国芸術の神髄の魅力に触れ「梅ファン」となった。日本人のジャーナリストで劇評家の辻聴花は、『順天時報』紙に以下のように書いた。「梅蘭芳の1919年の訪日により、日本人は中国の戯曲に興味を持った。この影響はこの先長く続くだろう」。こうした大好評の背景には、日本にも京劇と同じような伝統芸術の歌舞伎があり、ともに女形が演じるという共通の下地があったことが大きい。そのため大衆が京劇をすんなりと受け入れ、その芸術性を理解し感動を呼んだのだろう。

 この時の日本公演は、梅蘭芳にとっては初めての海外であり、中国の京劇が海外に初めて紹介された時でもあった。京劇が今のように舞台芸術として国際的に大きな影響力を持つに至ったのは、京劇の魅力そのものと切り離せないし、名優・梅蘭芳の功績とも切り離せない。また日本のファンたちの支持とも切り離せないだろう。

 

中日民間交流の使者として

 1919年の日本公演を振り返ると、梅蘭芳はその深い芸術性を持つ演技を通し、京劇芸術の魅力を存分に日本に伝えたと言える。中国の伝統文化に対する日本の人々の認識を一変させ、中日両国の文化芸術の交流を後押ししたその意義は大きい。しかし当時、梅蘭芳はこのために、中国国内では「世評を顧みない不遜」とも指摘されていた。

 歴史的には、19年のパリ講和会議により中国の山東半島の権益がドイツから日本に譲渡され、中国社会に激しい怒りと反日のうねりが高まっていた。それが導火線となり、歴史的な「五四運動」とつながっていった。梅蘭芳の訪日公演は、まさにその「五四運動」が起きる前後だった。風雲急を告げる時局の下、巨大な社会の圧力に屈せず計画・実現された訪日公演であり、それは京劇界の大御所・梅蘭芳ならではの強い意志と度量、将来を見通す深慮でもあった。

 梅蘭芳の2度目の訪日公演は24年だった。東京では23年に関東大地震が起きていた。梅蘭芳は特別に2日間チャリティー公演を行い、銀貨で1万元近い収益全てを日本に救済支援として送った。翌年10月、再び大倉喜八郎の招きで日本を訪れた梅蘭芳は、帝国劇場の再建記念公演に参加し、日本の被災者へ慰問のメッセージを送った。

 この2回の訪日公演は、中日の政治関係が悪化する中で行われた。梅蘭芳の慈善活動は、日増しに悪化する両国の人々の対立感情を和らげた。またそれだけでなく、西洋文化を崇拝する日本人の目を、東洋の文化的な価値に向けさせるのにも役立った。日本の東洋史学者・神田喜一郎が公演の鑑賞後に記した劇評のように、「東洋の芸術には西洋にはない貴重な価値がある。梅蘭芳の芝居を通し、この点をしっかりこの目で認識した」。まさしくこれが梅蘭芳が訪日公演を行った目的であり、また中国の伝統的な演劇芸術を海外に広げ、西洋文化で覆われた世界に東方文化の輝きをともすことであった。

 新中国成立後の56年、名優・梅蘭芳は国・政府を代表し、友好親善の使者として中国の京劇代表団を率いて3度目の訪日を果たした。北京の戯曲評論協会の靳飛会長は、当時の状況を振り返ってこう述べる――あの頃、日本政府は新中国と接触を避けていた。そんな状況では、日本の幅広い人々に支持されていた梅蘭芳だからこそ、日本への民間外交を切り開くことができた。この友好親善の使者という役を演じられるのは彼以外にはいなかった。だから周恩来総理は56年の初めに自ら梅蘭芳と会い、代表団を率いて日本で公演するよう依頼したのだ。

 日本での公演中、梅蘭芳は一行を率いて、東京から大阪、京都、名古屋、奈良、福岡、八幡(九州)など多くの都市を回った。さらに広島では、原爆の被害者と戦争孤児のために大きなチャリティー公演を行った。この時の訪問で梅蘭芳は、両国の国交正常化の促進に大きな役割を発揮した。

 

梅蘭芳が1930年に米国公演に向かう途中、長年の京劇ファンだった大倉喜八郎の息子・喜七郎が、東京会館で1000人以上の参加者を集めて梅蘭芳(中央)の大歓迎会を開いた。日本での梅蘭芳の変わらぬ影響力がうかがえる

 

百年後のシンポジウム

 人の世は多くのことがあり、瞬く間に時は過ぎる――。梅蘭芳が初めて日本公演を行ってから、すでに100年が過ぎた。梅蘭芳記念館と北京の日本文化センター(国際交流基金)では今年1月26日、中国芸術研究院と共同で「梅蘭芳の初訪日公演100周年記念の学術シンポジウム」を開催した。

 開催時期がちょうど旧正月の春節間近で、人々が一家団らんのため一斉に古里に帰る繁忙期にもかかわらず、会場は立すいの余地もなく、臨時席まで出るほどの盛況ぶりだった。これには梅蘭芳記念館の劉禎館長も「これほど多くの方々が積極的に参加されるとは思いませんでした。これもひとえに梅蘭芳の魅力のおかげです」と顔をほころばせた。

 

シンポジウムで佐々木氏が紹介した、2度目の日本公演時に梅蘭芳が表紙を飾った雑誌(写真・王朝陽/人民中国)

 今日でも、梅蘭芳の芸術と人物としての魅力は多くのファンを魅了してやまない。シンポのゲストの一人である中国文化研究者の佐々木幹氏は「京劇俳優の中でも特に日本と関係が深い梅蘭芳が好きになった」と話す。同氏は余暇を利用して梅蘭芳の研究を始め、「調べれば調べるほど面白くなり」、これまで日本の多くの古書店を渉猟。訪日公演の写真が載った雑誌や新聞から、裏面に公演の広告が印刷された電車の切符まで、公演の盛況ぶりを記録した多くの資料を収集した。

 同シンポでは、発言者たちが、梅蘭芳の日本初公演の際の演目選びについてや、日本の著名人が観劇後の感想を記した日記や手紙など、さまざまな角度から梅蘭芳の京劇の魅力を読み解き、100年前の中日芸術交流の活発な活動ぶりを追想した。梅蘭芳記念館の名誉館長である屠珍氏はあいさつの中で、「学術シンポジウムの形で当時を語るのは単に記念のためではなく、この機会を通してさらに中日の文化・芸術の交流を促進し、中日両国の人々の相互理解と相互信頼を深めるためです」と述べた。

 屠氏の話は、梅蘭芳の1919年の日本初公演前に、京劇評論家の李濤痕が語った予言を思い出さずにはいられない――「梅蘭芳の日本公演により、少なくとも日本人は広大無辺の中華文明の一端を理解したことだろう。そして、それがいつの日か日本が本当に中国を理解し、中日両国が真の親善と友好を結ぶことにつながるだろう」

 

梅蘭芳の3度目の日本公演で、歌舞伎役者で女形の名優の3代目・中村雀右衛門の夫人が梅蘭芳にプレゼントした押絵。梅蘭芳は最初の日本公演で雀右衛門と交流し、舞台での化粧方法を教わるなど親交を深めた。雀右衛門も梅蘭芳の京劇の芸術性に啓発され、日本版の『天女散花』を演じている

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