仲代達矢氏が北京で交流会 生涯テーマは「戦争と平和」

2019-06-20 15:21:07

陳克=文写真

日本の著名な俳優、仲代達矢氏(86)がこのほど、中国戯劇家協会の招きで、日中文化交流協会代表団に同行して、北京、上海を訪問し、一連の芸術交流イベントに参加した。3月21日午後には、北京の中国電影(映画)資料館で代表作『切腹』が上映された。その後、中国戯劇家協会主席の濮存昕氏、映画監督の陸川氏、本誌の王衆一総編集長が加わって開かれた「俳優人生――仲代達矢との対話」交流会に参加し、映画や演劇について熱く語り合った。

 

交流会のステージ。前列左から王衆一氏、1人おいて仲代達矢氏、陸川氏、濮存昕氏

 

「黒澤作品にはもう出ない」

 当夜の電影資料館の1号ホールは階段や通路も詰め掛けた映画ファンで超満員だった。万雷の拍手に迎えられ、仲代氏がステージに姿を見せた。彼のひげと髪は真っ白だったが、相変わらず姿勢正しくすっくと立ち上がり、張りのある声で、客席にあいさつした。

 濮、陸、王3氏はそれぞれ、演劇、映像作品、中日文化交流史の三つの側面から仲代氏と語り合った。

 陸氏が最も評価する監督は黒澤明氏であり、黒澤作品で仲代氏の演技を見てファンになったというエピソードを披露した。彼は率直に、「『王的盛宴(邦題項羽と劉邦 鴻門の会)』を撮影したときには毎日、仲代さんの『乱』と『影武者』の演技を見て、演出を熟考しましたよ」と語った。

 仲代氏は、黒澤氏との最初の出会いは『七人の侍』で、せりふなしの浪人の役だったと振り返った。時代劇は初体験だった彼は、侍の歩き方ができず、刀の差し方も知らなかった。撮影は朝9時から始まり、彼は何度も歩いたが、黒澤監督は一向にオーケーを出さなかった。監督は「こいつに飯を食わすな。練習させとけ!」と言った。そこで、仲代氏は撮影村の空き地で昼の12時までずっと練習を繰り返した。それから、午後3時まで撮影は続いたが、まだオーケーが出ない。黒澤監督は、とうとう堪忍袋の緒が切れて、「何だ?あんなに有名な俳優座は歩き方も教えていないのか? 仕方ないな、これでいこう」と言った。

 これは若い仲代氏の自尊心を大いに傷つけ、彼は「二度と黒澤作品には出ない」と誓った。しかし、後に彼が小林正樹監督の『切腹』に出演して侍が座ったり、歩いたり、戦ったりする場面の演技をする際、黒澤監督があの時に厳しく要求したことがいかに正しかったか、やっと分かったという。

 けいこを積み重ねた結果、演技が次第に成熟した仲代氏は最終的に黒澤監督に認められ、数年後、『用心棒』の撮影に迎えられた。それから20年以上の時間を経て、『乱』に出演したとき、仲代氏は勇を鼓して監督に『七人の侍』出演時のエピソードを持ち出してみた。「監督は笑いながら、『潜在力のある若い俳優だと思ったから、厳しく注文を付けたのだよ』と言いました。私は彼にとても感謝しています」

 

心から愛する原点の舞台

 映画界で輝かしい成果を上げてきた仲代氏だが、心から愛している舞台劇を決して捨てることなく、長年にわたって、舞台で活躍してきた。濮氏は尊敬の念を込めて、「映画やテレビドラマに出演すれば名声も収入も得られ、しかもより大きな可能性があります。それなのになぜ、舞台にそれほどこだわるのでしょうか?」と仲代氏に尋ねた。

 この問いに仲代氏は、人生の最初の目標は舞台俳優になることだったが、たまたま映画出演の話があり、しかも高い評価を得て、その後、映画出演が増え、舞台の時間に食い込んで来たと答えた。そこで彼は毎年、半年は舞台劇出演の時間を確保することを決めた。1年の前半は映画を撮り、後半は例え脇役でも必ず舞台に立つことにした。「長い間、舞台を離れていると、俳優の演技の質は落ちる。私はそう固く信じています」。このようにして彼は映像と舞台のバランスを取って来た。

 「仲代さんが舞台に掛ける情熱と、深みのある演技を中国の俳優は見習わなければなりません」と濮氏が言うと、彼は次のように謙虚に答えた。「映画は全部、監督の要求通りにしなければなりませんが、舞台はほとんど私自身が決めます。天賦の才能があるわけではありませんよ。修業を積みながら今日までやって来られたのは幸運でした」

 演技の修業を続けてきた他に、仲代氏は後輩俳優の育成にも力を入れている。1975年、彼は演出家だった宮崎恭子夫人と共に俳優を養成する学校「無名塾」を設立した。学費は不要で、俳優を目指している人であれば誰でも入学できる。募集人数は毎年5人だ。「壁にぶつかった俳優がここに来て、修業の中から新しい自分を見つけることもあります。ここは有名になるのが目的ではありません。だから『無名塾』なのです」。彼が身をもって手本を示している「無名塾」は、日本の演劇界、映像界に数多くの優れた俳優を送り出している。

 

交流会を主宰した中国戯劇家協会の濮存昕主席

 

舞台について熱く語る仲代達矢氏

 

『大地の子』と『乳泉村の子』

 王衆一氏は中日文化交流の視点から、仲代氏が果たしてきた歴史的な役割と貢献を高く評価した。王氏は特に、92年に濮存昕氏と栗原小巻氏が主演した映画『清涼寺鐘声(邦題乳泉村の子)』と、93年に仲代氏と朱旭氏が共演した中日共同制作テレビドラマ『大地之子(邦題大地の子)』という印象的な2作品の意義を比較した。

 仲代氏は次のように語った。「私は32年生まれで、当時、日本は中国東北への侵入を開始し、中国人民に深刻な災難をもたらしました。私は申し訳ない気持ちでいっぱいです。私が演劇界に入った際の恩師、千田是也氏は戦争中、左翼演劇活動に身を投じ、逮捕され入獄しました。私自身も東京大空襲で戦争の恐怖を経験しました。後に出演した『人間の條件』や『乱』などの作品は全て反戦を題材にした映画で、戦争と平和というテーマは私の俳優人生をずっと貫いていると言っていいでしょうね」

 『大地の子』は戦争孤児の物語で、仲代氏と朱旭氏が生みの親と育ての親をそれぞれ演じた素晴らしい共同制作作品だった。仲代氏は、朱氏は演技が巧みなだけでなく、人格的にも魅力があると語り、彼を尊敬していたという。「残念なことに彼は昨年亡くなりました。非常に悔やまれますね。おととし、朱さんが来日されたとき、『無名塾』に案内しました。知らず知らずのうちにあれは運命的な再会だったと感じ、少し慰められています」と振り返っていた。

 濮氏は「朱さんは北京人民芸術劇院の大先輩です。仲代さんは彼と共演して、固い友情で結ばれました。一方、私は『清涼寺鍾声』で栗原小巻さんと共演しました。彼女は私の母親役を演じました。彼女にとっては初めての老け役で、撮影の合間にセットから外へ出て、役作りの練習を繰り返していました。そのプロ精神に感動しました」と語った。仲代氏は栗原氏に替わって感謝の意を示し、「日中友好のために、俳優として今後も私の役割を果たします。ご来場の皆さんの声援を引き続きお願いします」と客席のファンらに話し掛けた。

 交流会の最後に、仲代氏は実弟でシャンソン歌手の仲代圭吾氏と一緒に日本語でシャンソンの『枯葉』を披露した。濮氏が歌詞の中国語訳を朗読。すっかり打ち解けた雰囲気の交流会は、熱のこもった高揚感に包まれて幕を閉じた。

 

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