仲代達矢氏インタビュー 「演ずることは生きること」

2019-06-19 16:14:48

人民中国雑誌社総編集長 王衆一

『北京晩報』記者 孫小寧

 

インタビューを受ける仲代達矢氏(写真・陳克/人民中国)

 

中国との縁そして友情

 

――これまでに5回訪中されているそうですが、中国の印象はいかがですか?

仲代達矢(以下、仲代) 1977年、私は日本の映画人の代表団の一人として中国に参りました。代表団の団長は木下恵介監督で、『切腹』の監督である小林正樹さんもご一緒でした。北京は素晴らしい都市で、びっくりしました。その後、90年代に日中共同制作の『大地の子』を撮影するため、また訪中しました。その際、中国人スタッフの中に、お父さんが日中戦争で亡くなった方がいました。私はこれを聞いて彼に、「本当に申し訳なかった。日中は二度と戦争をしてはいけない」と言いましたが、彼は「そうですね。歴史は歴史として、それを乗り越えて未来に向かわないといけません」と答えた。これが一番印象に残っています。プライベートでシルクロードを訪れたこともあります。井上靖先生が書いた『敦煌』という小説が日本ですごい評判でした。小林正樹さんは『敦煌』を撮りたくて、最後まで頑張ったんですが、いろんな条件が合わなくて、残念ながらかなわなかった。彼が『敦煌』を撮れたらよかったのにと私は今でも思っています。

 

――『大地の子』には、仲代達矢先生、宇津井健先生、そして朱旭先生が出演していました。宇津井先生は『赤い疑惑』で、毅然として思いやりのある日本の父親像を中国の観客に伝えました。朱旭先生は『大地の子』『變臉この櫂に手をそえて』『こころの湯』などを通して、寛大で親しみやすい中国の父親像を日本の皆さんに伝えました。残念なのは、『大地の子』は中国で公開できなかったので、先生が演じた日本の父親像が中国に伝わっていないことです。お二人とのエピソードをお聞かせください。

仲代 撮影時、私は朱旭さんの演技に圧倒され、こんなにすてきな俳優が中国にもいらっしゃるのだと思いました。撮影中も人間的にも素晴らしい俳優でしたが、残念ながら亡くなってしまった。数年前、最後に日本へ来られたとき、私がやっている「無名塾」まで来て、若い子の芝居まで見ていただきました。宇津井健は俳優学校の同級生で、私より先に俳優業界に入って活躍していました。朱旭さんとも宇津井健とも最後の共演は『大地の子』で、そういう意味では、非常に印象深く、私の心の中に残っています。

 

朱旭氏(左)と再会(写真提供・日中文化交流協会)

 

異なる役に挑戦し演技を磨く

 

――先生が演じた日本の父親像は中国に伝わっていませんが、70年代、『金環蝕』と『華麗なる一族』で演じた全く違う二つの役柄を中国の観客は今もはっきり覚えています。それが中国人が知った最初の仲代先生でした。この二つの映画の中で演じて感じたことを教えてください。

仲代 『金環蝕』と『華麗なる一族』は山本薩夫監督――現体制に対して文句をつける社会派の監督の作品です。『金環蝕』では本当に悪い政治家をやりましたが、『華麗なる一族』では打って変わって、政治の在り方に非常に批判的な役を演じました。全然違う二つの役ですけども、役者がいろんな役を演じるのは普通のこと。これこそ役者と映画スターの違う点です。映画スターというのは、1本の映画で良いイメージを観客に与えたら、会社はそのイメージを崩さずに、また同じような役を演じさせます。あるいは、映画スターの雰囲気によって企画を立てるということもあります。私は演劇の役者として劇団にいて、どの映画会社にも所属していなかった。例えるなら、私はフリーで、東宝という映画会社の監督が私に映画出演のオファーを出すわけです。作品によって、私の演じる役は大きく変わりました。観客は初めは、「あれ、この前は『人間の條件』でずいぶんいい人をやったのに、なんで『金環蝕』では悪いやつをやるんだ」みたいな違和感を持ったでしょうね。

 

――千差万別のさまざまな役を演じてこられましたが、印象に残っている役といえばどれですか?

仲代 俳優というものは、一人ではできません。素晴らしいシナリオ、素晴らしい監督、素晴らしい共演者、素晴らしいスタッフ、これで1本の素晴らしい映画ができるんですね。そういう意味で、全てが素晴らしかった映画は『切腹』です。武士道の中の人間的ではない部分を描いた作品です。当時において、この映画は体制の不公平や、個人の命に対する尊重などの問題に触れていました。

 

――だから、『切腹』は時代を超えた、不滅の作品として認められているんですね。

仲代 そろそろあの世に行くとなったときに、代表作として1本どれかと言われたら『切腹』を選びます。

 

映画『切腹』より。仲代氏は、同作は伝統的な武士道の概念を覆した映画だと考えている(『切腹』監督・小林正樹 1962年 写真提供・松竹)

 

黒澤映画に出演 三船敏郎と共演

 

――三船敏郎さんは黒澤映画の中のナンバーワンとよく言われています。『椿三十郎』では、三船さんとの素晴らしい対決シーンがあり、三船さんが仲代先生を負かしました。黒澤映画の中で、三船さんと共演するきっかけになった作品はどれですか?

仲代 『椿三十郎』の前に、『用心棒』という映画がありました。黒澤さんと三船さんのコンビは僕が出る前に、名作をいっぱい作り上げています。たまたま私が役者になって、黒澤映画に出るようになったのが『用心棒』でした。『用心棒』『椿三十郎』の2本とも最終的には私が斬られ役です。黒澤監督の私に対する要求は作品によって違いました。監督は『用心棒』のとき、「カマキリみたいなやつになってくれ」と言いました。『椿三十郎』では、同じ侍でありながら、辣腕の悪いやつですね。そして、3作目の『天国と地獄』では、「米国映画のヘンリー・フォンダみたいにやってくれ」と。それまであくの強い役をやってきたのに、今度はすっきりとした役を求められました。昔は肩幅がそんなに広くなかったので、その撮影のために毎日鍛えました。

 

舞台と銀幕を融合した表現を

 

――先生や三船さんなどの世代の俳優が銀幕で演じた役は、非常に重みのある、クラシックな英雄タイプの男が多いですね。今の映画では、いわゆるイケメン俳優が多い。映画俳優がどんどんイケメン化していく現象について、どのような見解をお持ちですか?

仲代 私はイケメンではないし、三船敏郎さんとか、丹波哲郎さんとか、勝新太郎さんとか、そういう個性的な、強そうな、悪そうな役者もあなたがおっしゃるイケメンじゃないでしょう。そういう仲間と比べて、私はもっとイケメンではないし、どちらかというと悪党面(笑)。俳優のプロというのはどういうものかいまだに考えているんですけど、まあ、取りようによっては「イケメン」という役があっても良いのではないか。日本では若い人たちを呼ぶためには、売れている、顔が良い俳優に出演してもらえば、芸が無くても、映画の収入が上がります。そういうキャラクターばかりの映画を作ると薄手の映画になるだろうとは思いますがね。

 

――舞台での貴重な経験をお持ちですが、『切腹』の中で、確か歌舞伎のノウハウを生かしたというような発言がありました。歌舞伎俳優ではないのに、どうしてそのようにされたのですか?

仲代 私の父親は早く死んだのですが、すごく歌舞伎が好きで、私も小さな頃からだっこされたり、手をつないだりして歌舞伎を見ていました。後に、全く違う新劇の方に入ったわけですけど。歌舞伎には「型」というのがあります。私は新劇にも型があっていいんじゃないかと思っています。歌舞伎の型は300年から400年の長い歴史の中で、名優が一つずつ作り上げてきたものです。昔から芝居は「一声、二振り、三姿」といわれます。観客はよく歌舞伎役者の動きの美しさをたたえますが、新劇はせりふに頼るところがより大きい。今はちょっと「姿」が先行して、せりふや動きが次になって、マイクを付けて舞台もやっちゃうような時代です。本当は「一声、二振り、三姿」ですね。しゃべりが崩れてしまうと、新劇というものは何だということになるので、少なくとも僕の周りの若者たちには、それを一生懸命教えています。

 

多くの監督から啓発を受ける

 

――70年間の役者人生の中で、多くの映画監督と組みましたね。よく知られているのは、山本薩夫、小林正樹、黒澤明、岡本喜八という4人の監督です。この4人について、印象に残ったエピソードを紹介していただけますか?

仲代 黒澤明先生は真っすぐな人です。小林正樹もやや似ていますけど、例えば撮影しているとき、「わぁ、ばかもの! どうしてそんなことができないのか。何なんだ。もっと勉強してこい」って言うのは黒澤さんです。小林正樹監督はただ静かに、「はい、もう一度。はい、もう一度」。ワンシーンを1週間ずっと繰り返して、オーケーがなかなか出なかったこともあります。岡本喜八とは、長い間、兄弟、兄貴みたいに付き合っていました。彼は素晴らしい喜劇作家です。私がとても深刻な役を演じてきたにもかかわらず、彼はいろんな喜劇で、ぼやけた喜劇性を出すように私に要求してきました。私にぼんやりしたところがあることを、よく知っていたもんですから。山本薩夫さんは悪しき体制を攻撃する、やや左翼的な監督です。私は彼の作品は、『華麗なる一族』とか『不毛地帯』とか、何本もやりました。実はここだけの話ですけど、『金環蝕』が一番好きなんです。あの星野官房長官の役は、悪党面ではないが、本当に悪いやつです。

 

仲代氏にインタビューする人民中国雑誌社の王衆一総編集長(中央)と『北京晩報』の孫小寧記者(右)(写真・陳克/人民中国)

 

役者人生を貫く原動力

 

――70年間の役者人生で、いろいろな人と出会い、他人の内面に入ってその人を演じるという経験を楽しめたのは、役者として幸せなことだったと思います。これほど多くの役をどうやってこなしてきたんでしょうか?

仲代 役者商売の技術の一つは、観察なんですよ。例えば、電車の中で、前におじいさんがやって来たら、その人をじっと見て、どういう生活を送っているのか、どういう家族を持っているのか、どういう商売をしているのかと推察していくわけです。それが役者の一つの大きな勉強になるんですね。私は、その人の行為がどうしてそうなったのか突き止め、そこから演技の方法を探るのが好きです。一生懸命やってきて、それから運も良くて、70年間この役者という商売をやってこられました。あとは、戦争ですね。第2次世界大戦のときに、私はまだ小さかったんですけど、東京にいて、毎日空襲があって、命からがらやっと逃げ延びました。それで、政治家と一般大衆の違い、悪しき体制に対する攻撃とか、人間の中にはいろいろな構図があると感じました。それを自由に描けるのは、演劇や映画だと思っています。

 

――70年間の役者人生の中で、挫折を感じて、辞めたいと思ったことはありますか?

仲代 私の結婚相手が女優だったんですけど、女優を辞めて、私と一緒に「無名塾」をつくりました。シナリオも書く、そういう才能のある女性でしたが、二十数年前にがんで亡くなりました。そのときには、もう「無名塾」もやめ、役者も辞めようかなと思った時期がありました。でも、「最後まで全うしてほしい」という遺言が出てきて。「よし! それじゃ、一生続けよう」と。でも、役者って売れなくなればそれまでだから、売れるように頑張ろうと思いました。

 

――やはり良い役者は、良い人間でなければならないですね。

仲代 演ずることは生きるということだと私は思っています。これは俳優という商売だけじゃなくて、全ての職業に当てはまるのではないでしょうか。

 

舞台『セールスマンの死』より(写真提供・無名塾)

 

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