Panda杯受賞者訪中団、古都西安を訪問

2019-08-23 11:59:15

 

空海記念碑の前で記念撮影をする中日両国の若者たち

8月5日、第6回Panda杯の受賞者たちは、北京での旅を終えた後、高速鉄道に乗って古都西安にやって来た。ここで彼らは兵馬俑、大雁塔、古城壁、碑林博物館を見学し、中国の悠久の歴史文化を肌で感じ取って、空海ゆかりの青龍寺や阿倍仲麻呂ゆかりの興慶宮を訪れ、中日文化交流の源流を探し求めた。また、西安の大学生と深い交流を行い、相互理解を深めると同時に、いかにして中日関係の未来を切り開くかを考えた。

高塚小百合さんは聖心女子大学の学生だ。4年前に東京の国立博物館で展示された兵馬俑を見たことがあるが、「前回は一部を見ただけでしたので、今回はぜひ、現場で兵馬俑の威容を見てみたいです」と語った。高塚さんと同じように、ほとんどの訪問団メンバーは西安での最初の訪問地、兵馬俑にとても期待を寄せていた。

 

秦始皇帝陵兵馬俑博物館を参観する訪中団

秦始皇帝陵兵馬俑博物館に足を踏み入れ、2000年余りも地下に眠っていた勇壮な軍団が本当に日本の若者たちの目の前に現れた時、どの顔にも興奮の色が浮かんだ。初めての中国訪問である京都大学の出石祐樹さんは、「今まで兵馬俑を高校の歴史の教科書でしか見たことがありませんでしたが、博物館に入った瞬間、その壮大な気迫に震撼を覚えました」と興奮して語る。神戸市外国語大学の北村美月さんは兵馬俑に来たのは2度目になるが、新たな発見もあった。「今回、兵馬俑には下級、中級、高級の区別があることを初めて知りました。さらに兵馬俑は掌線や髪の毛が1本1本刻み込まれているなど、極めて精密に作られていることを知り、その技術の高さに本当にびっくりさせられました」と語った。

唐代の長安は当時世界一の大都市で、100万人がここに住み、各国の文化がここで融合していた。630年から9世紀末までの約260年間、奈良平安時代の日本は中国文化を学ぶために十数回にわたって遣唐使を派遣した。

 

中日両国の若者は共に阿倍仲麻呂記念碑を見学し、中日文化交流の先賢に敬意を表した

阿倍仲麻呂はその中でも代表的な人物だ。717年、16歳の阿倍仲麻呂は第9次遣唐使の一員に選ばれ、唐の都長安にやって来た。彼は科挙に参加し、官途につき、李白や王維といった大詩人と密接な交流をもった。753年、阿倍仲麻呂が帰国の際に海上で遭難したとのことが長安に伝わり、李白は涙をぬぐって『哭晁卿衡』の詩を詠んだ。幸い、阿倍仲麻呂の乗った船はベトナムに漂着したため、彼は2年後に再び長安に戻った。しかしこれ以後、彼は故郷に戻ることなく、長安に骨を埋めた。阿倍仲麻呂と詩人李白との友情について知った後、京都大学大学院で人類学を学ぶ大谷琢磨さんは、1000年余り前の日本と中国にこのような深い交流があったことに感動し、「帰国後はこの感動を家族や友人と分かち合いたい」と語った。

西安で、主催者は20名近い日本語専攻の学生たちを招き、日本の若者たちに同行してもらった。8月7日早朝、興慶公園に向かうバスの中で、会ったばかりの両国の若者たちは何の屈託もなく、贈り物を交換した後、おしゃべりを始めた。話題はふるさとの紹介から、自分の趣味、歴史文化にまで至った。訪中団の多くの日本の若者は中国語が話せず、中国の学生の日本語もたどたどしいものではあったが、両国の若者たちは紙とペン、スマホを使ってコミュニケーションをとり、笑い声が絶えず、言葉の壁をあっさりと乗り越えてしまったようだった。西山佳子さんの故郷は京都で、西安は彼女にとってとても親しみを感じる街だった。さらに重要なのは、彼女はここで新しい友人ができたことだ。「同じ年頃の中国人と直接交流できて、とても嬉しいです。彼らはとても熱心でした。彼らががんばって日本語を学ぼうとしている姿を見て、私もしっかり中国語を勉強しようと決意しました」。

 

興慶公園を歩きながら交流する中日両国の若者

わずか3日間の西安旅行だったが、Panda杯訪中団の若者たちは多くの収穫を得たと感じていた。古代の先賢の足跡を辿り、中日友好交流の歴史を振り返る中で、彼らは新たな友情を得て、新しい時代の中日交流の使者になろうという決意を固めたのだ。

 

人民中国インターネット版 2019823

 

 

 

 

 

 

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