「東京-北京フォーラム」15年目に思う 民間対話で両国関係あと押し

2019-10-23 16:58:01

言論NPO理事長 工藤泰志

2005年に発足した「東京-北京フォーラム」は、今年で15回目の開催を迎える。日本側主催者である言論NPOは、非営利団体で、政府から独立しているシンクタンクだ。直面する課題を解決するためには世論が重要と考え、課題解決の意思を持つ世論をよりバックアップする環境をつくるため、活動を続けてきた。

 私はこうした考えから、この15年間、どんなに困難が大きいときでも、一度も中断せずに中国との対話に取り組んできた。その結果、日中両国で最も影響力があり、世界でも注目される民間外交の舞台を作りあげた。

 

難局打開に北京を奔走

 言論NPOの設立は01年であり、小泉政権が誕生した時期と重なっている。米国ではニューヨークでテロが起こり、私は国内や世界の対応に追われていた。その直後、私たちはどうしても無視できない出来事に直面する。靖国参拝などがきっかけで05年に中国で起きた、日本政府に対する中国の若者たちの激しい抗議デモである。

 しかし、この状況を解決しようという動きは全くなかった。この状況を放置していていいのか。その強い決意が、私がその時に北京に初めて向かった最も大きな理由だった。

 外交とは政府が行うものである。しかし私は、政府の役割だけでは不十分と考えている。世論が悪化すると政府間外交も身動きが取れなくなる。こうした困難な局面では、民間が動くしかない。

 05年の日中関係の状況がまさにそうだった。国民感情の対立は政府間関係自体を壊してしまう。状況を解決する意思を持つ人々が集まり、その議論が多くの人々の理解を得る。そうしたサイクルが回らない限り、国民感情を変えることは難しい。この考えを、私は現在「言論外交」という新しい民間対話の形で整理しているが、その実践の場が「東京-北京フォーラム」だった。

 私は、北京で会った人にこの考えを伝え、こうした困難を克服する新しい対話の場所を作りたいと提案した。両国関係には間違いなく空白がある。困難が起こっているのに誰も解決する人がいない。誰かが勇気を出さないと何も変わらない。それが、私の言いたいことだった。

 北京では多くの有識者と面談した。誰もが最初は良い考えだと言ったが、具体的なプランに話が及ぶと、提案は暗礁に乗り上げてしまう。その繰り返しだった。なぜ中国の多くの人が激しい感情を持つのか、私はどうしてもその原因を突き止めたかった。対話のためにも、両国民の相互理解の実態や意識を分析したかった。しかし、世論調査をさせてくれないかと頼むたびに会議を打ち切られた。

 ある日、宿泊先に中国政府関係者の女性が訪ねて来た。東京大学への留学経験があるという彼女から、「工藤さんが考えていることをぜひ実現してほしい。実現しなければ、両国民の気持ちは戦争になるまで収まらないだろう。これはかなり危険だ」と言われ、びっくりしたのを今でも覚えている。私は諦めるわけにはいかなかった。

 私は電話に明け暮れた。多くの友人に力を貸してほしいと頼んだ。そんな中、中国日報社(チャイナデイリー)の知人から連絡があり、たくさんの友人を集めるので工藤さんの考えていることを話してほしいと言われた。

 お会いしたのは国務院新聞弁公室など10人近くの若い政府職員だった。私が日中に関する強い思いと言論NPOの使命を話し終えると、「ぜひ力になりたい」と次々に握手を求めてきた。

 当時、新聞弁公室主任だった趙啓正さんと面会したのはその数日後だった。私が趙啓正さんこそ「東京-北京フォーラム」の生みの親だといつも話すのは、趙さんとの面談がなければ、この対話が動き出すことはなかったからだ。

 この日のことは今でもよく覚えている。「世論が暴発すると、政府がどれだけ説得しても全てを壊してしまう。この世論を対立ではなくお互いの困難を乗り越えていくものにしなくてはいけない。私はそれをやりたい」。私は真剣にそう語った。

 趙主任の優しそうな笑顔は15年たっても変わっていないが、決断は速かった。「私たちも世論の役割を重視している。ぜひ協力したい」。「東京-北京フォーラム」が動き始めた瞬間だった。その際に、他にやりたいことはないかと聞かれたので、両国のために世論調査をどうしてもやらせてほしい、とお願いした。

 中国側にとっても、当時の世論は危機的だという認識があったのだと思う。困難に立ち向かうために国民に開かれた対話をつくる。両者の考えが一致した瞬間だった。これが私の初心であり、今も絶対に譲れないものとなっている。

 

2006年に東京で行われた第2回「東京-北京フォーラム」であいさつする安倍晋三・内閣官房長官(当時)と王毅・駐日中国大使(当時)(写真提供・言論NPO

 

友好は行動の結果

 私たちの対話はそれから15年間、両国にどれほどの困難があっても一度も中断せずに行われている。15年のうち、政府間交渉がない期間が5年ほどあった。しかし、当時の駐日大使だった王毅さんや公使だった程永華さんら駐日中国大使館が全面的にバックアップしてくれた。そして、前述の趙啓正主任もそうだが、多くの人がこの試みに賛同し、力を貸してくれた。この人たちがいなければ、この対話はここまで長く継続しなかっただろう。

 この15年で日本でも多くの方が対話を支えてくれた。私にとって忘れられないのは、立ち上げが厳しい中で背中を押してくれた方々だ。富士ゼロックス元会長の故小林陽太郎さんは、当時一緒に体制を作り上げてくれた。また、あの困難な05年に私を心配して北京に一緒に来ていただいた元セブン銀行社長の安斎隆さんや元マッキンゼー東京支社長の横山禎徳さんのことも忘れられない。

 フォーラム発足の際、私たちは「友好」という言葉を使いたくなかった。なぜなら、友好とは目的ではなく結果であり、課題に本気で向かい合った結果として友好が実現できる、と思ったからだ。だから、議論はいつも本気だった。

 フォーラム発足時は日中関係がまだ最も厳しい時であり、そうした本気の対話が本当に可能か、自信があったわけではない。

 こうした不安が一掃されたのは、初めての世論調査の結果を満員の会場で私が報告した時である。会場がシーンと静まり、人々が相次いでメモを取ったことを覚えている。この世論調査の結果が会場に衝撃を与えたのは間違いなかった。

 驚いたのは、両国民が相手国に対する基本的な理解もしていなかったことだ。6割を超える中国人が、「今の日本は軍国主義だ」と回答し、日本によるODA(政府開発援助)や円借款などの中国への支援を知っている人は1%程度にすぎなかった。そして、日本は報道や表現の自由もない国だと中国人は思っていたのである。

 私は、こうした世論調査の結果が実際の議論でどのように受け止められるのか、それが気になってたまらなかった。ところが私の予想とは裏腹に、分科会を終えた参加者はみな気持ちを高揚させていた。パネリストの一人で、当時の日経新聞専務の小島明氏が、「工藤さん、初めて議論が噛み合ったよ」と言ってくれた。多くのパネリストが小島氏と同じ感想だった。お互いの状況を知ったことで自分たちが直面する困難について考え始めたのだ。

 世論調査が国民の本質的な理解と対話を促す。そんなフォーラムが始まったのである。

 2回目のフォーラムは06年に東京で行われた。小泉政権が終わり、当時の安倍晋三内閣官房長官が次の首相になると言われていた頃だ。日中の両国間関係を改善するタイミングは今しかない、という強い思いが私にはあった。

 そこで関係者に、人選はお任せするが政府あいさつをどなたかにしていただきたい、と内々で打診した。さらに、この機会を失えば日中関係改善の機会をも失うだろう、とも付け加えた。

 フォーラム前夜、関係者から「あなたが期待する人が出席するから、その内容を記者クラブに伝えてください」と突然連絡があった。安倍官房長官が出ることになった、と言う。安倍氏は、その1カ月後に首相になることが確実視されていた。

 実はその数日前に駐日中国大使館の関係者からも、「あなたは歴史を動かしましたね」と言われた。ただ、それがどんな意味か良く分かっていなかった。

 フォーラムに登壇した安倍官房長官の発言は感動的だった。

 「摩擦を恐れていては真の相互理解は生まれない」「政治と経済の二つの車輪をそれぞれ力強く作動させ、日中関係をさらに高度の次元に高めていくような関係を構築していかなくてはならない」。関係改善に取り組むという力強い決意に、会場は静まり返った。当時の王毅大使のあいさつはそれに対する実質的な返礼となった。あいさつが終わると、中国側の人々が次々に私に駆け寄って握手し、「本当に歴史を動かしたね」と言った。

 この時の発言が、その後の日中関係改善の決定的な起点になったのは事実だ。その1カ月後、自民党総裁選を経て安倍氏は首相になり、その翌月には電撃訪中を果たす。そこで戦略的互恵関係を築くことに合意し、日中関係の雪解けが始まった。この雪解けを作り出した舞台こそが、この第2回「東京-北京フォーラム」だったのである。

 これ以降、中国側のフォーラムを見る目も大きく変わった。

 

2014929日、周明偉・外文局局長(左、当時)と言論NPOの工藤泰志理事長が「北京-東京フォーラム」の次の10年に向けた調印式で署名し、当フォーラムの第11回以降の開催が確定した。以降、中国側の主催はチャイナデイリーから外文局となった(写真・佐渡多真子)

 

「不戦の誓い」を徹夜で討論

 15年間の「東京-北京フォーラム」で最も印象に残っているのが13102627日に北京で開催された第9回フォーラムだ。

 12年9月、日本による「島購入」に中国が反発し、大騒動に発展した。私はこのニュースをワシントンで知ったが、日中両国が再び深刻な対立関係に戻ったという問題にどう立ち向かえばいいのかを、真剣に悩んだ。

 13年は日中平和友好条約締結35周年という節目の年だった。ところが、この対立でフォーラム発足当時と同様に政府間交流がほぼ停止し、メディアが互いに非難合戦を始めた。世界では、日本と中国の間で戦争の危機が高まっているという報道であふれた。

 私は、これこそ民間で取り組むべき問題だと考えた。日本政府は、領土問題は存在しないという立場であり、中国側はその領有権を主張し、現状を変更したことを問題視していた。しかし、民間がここで取り組むべきことは、この地域で戦争を起こさないという合意を結ぶことだと考えた。実際、東中国海の周辺では、両国の船舶が緊張状態にあり、偶発的事故が紛争に発展することを抑えるルールも連絡網もなかった。

 そこで私は意を決して、日中平和友好条約締結35周年を記念してフォーラムで「平和宣言」に合意したいと、中国側に申し出た。その時のことは今でも忘れられない。

 私は準備を開始した。米国の外交問題評議会に「北東アジアの平和は市民の外交が取り組む」という内容の論文を寄稿した。その論文がホームページに掲載されたのを確かめて、私は北京に向かった。

 私が当時考えたのは、両国民の願いを私たちの立ち位置にする、ということだった。私たちが行った世論調査では、この領土問題で緊張が高まる中でも、日本と中国の国民のそれぞれ7割近くが平和を求めているという結果が出た。この願いに基づいて両国は合意すべきだと考えた。

 私が提案したのは、この局面で日中両国はどんな時でも戦争しないという「不戦の誓い」に合意し、それを日中両国だけではなく、世界に伝えることだった。日中の対話でそれを合意すれば、両国民はこの対立を冷静に考えてくれるはずだし、何よりも政府間で対話のきっかけをつくれるかもしれないと考えた。

 この合意作りは決して簡単なことではなかった。さまざまな困難があり、妨害もあった。ここでその経緯を詳しく説明することはできないが、多くの人を説得し、文面を作成する日中間の協議が明け方まで続いた。

 日中互いに譲れない部分があり、言葉の使い方にも意見の違いがあったが、声明をまとめたいという気持ちは完全に一緒だった。そして、フォーラム2日目の27日未明、合意は成立し、私は朝にその文書にサインした。

 習近平国家主席が、まさに私たちが協議を始めるその直前に行われた、周辺外交活動座談会の重要演説で、民間外交の重要性を指摘したことは、特筆に値する。習主席が評価した民間外交の成果をフォーラムのコンセンサスに盛り込めたことを大変うれしく思った。フォーラム閉幕後、会食に招待してくれた国務院の幹部からこのような提案を受けた。「これは中国政府としての相談だが、このフォーラムを次の10年も継続できないだろうか。もちろん民間のものだから民間の皆さんに決定してほしいが、ここまで大きく歴史的なことを実現できるフォーラムを10年で終わらせたくない」

 とても光栄な話だった。こうしたいきさつから「東京-北京フォーラム」はようやく次の10年、第2ステージに入ることができた。そして中国側の主催者はチャイナデイリーから中国国際出版集団(中国外文局)へと交代した。

 

昨年10月に東京で行われた第14回「東京-北京フォーラム」では、中日両国が今後どのような形で世界に貢献していくべきかが討論された(写真・沈暁寧/人民中国)

 

世界へ平和を発信

 今年で「東京-北京フォーラム」は15年目を迎える。昨年のフォーラムでは「平和宣言」を出すことで、日中間の平和のみならず、北東アジアの平和を米国や韓国なども含む多国間で協議する作業の開始にまでこぎつけた。北東アジアに平和メカニズムをつくるという歴史的な動きが始まったのは、日中両国の主催者が対話の意味を正確に理解していたからである。

 日中関係は両国の関係改善や相互理解だけではなく、アジアや世界を視野に入れた上での新たな協力関係構築に向け、今まさに踏み出そうとしている。私は、民間外交である「東京-北京フォーラム」の場で、北東アジアの平和をつくるのが願いだ。両国が共に協力し、発展を遂げるためにはまだまだ取り組まなくてはならない課題がある。

 そうした努力がより大きなものになったとき、国民の世論が大きく好転することを期待している。

 
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