国籍の壁を越えて

2019-07-01 09:43:01

並木 愛の


私の高校は中華街の中にある。そして近くに中華学院もある。クラスに中国の人もいる。授業で中国語講座もある。私の生活の中には中国がすぐ近くにある。しかし、私と中国との直接の関わりは一つもなかった。むしろ私は一方的に中国という国に壁を作っていたのだ。

私の中では、中国人は少しキツイ印象があった。例えば、中華街のお店に入った時に、中国語で会話をしている店員さんの話し声が、私には怒っているように聞こえるのだ。他にも文化の違いなどもあるのだろうが、電車内での話声が大きかったり、列に並ばなかったりなど、日本人とは少し違う事を理由に、私は中国に積極的に歩み寄らなかったのである。

ある日、中国語講座を勉強している友人に中国語の発音の話を聞き、声が大きいのは中国語独特の発音だと知った。その事実を親に伝えると、予想だにしない言葉が返ってきた。「お父さんの一番の友達は中国人だよ。」父に中国人の友達がいたなんて意外だった。しかも一番といえるような友達だなんて。

その中国人の友達は張さんという。父が働いている会社へ技術を習得する為に、まだ日本語がつたない状態で入ってきた。日本語が分からないので、まわりとコミュニケーションがうまくとれず、仕事が思うように出来ない張さんを、父が色々と手伝ってあげたそうだ。父も最初は日本人ではないことを意識していたが、同じ現場で研鑽を積む彼の姿を見ているうちに、中国人という国籍の壁を越え、一人の仲間として向かい合うようになった。

その後、張さんは勤めていた会社を辞めて別の会社に行った。しばらくして張さんから父に連絡があり、中国に帰って会社を作りたいと相談してきた。日本の建設業で学んだことを中国で生かしたいと。まずは日本のものを中国で販売するために、日本のメーカーを紹介して欲しい。という相談を父は嬉しく思い引き受けた。当時の父はまだ若く未熟だった為、張さんの人生を左右するとも言える役割を頼まれた事がなおさら嬉しかったのだ。

そんな彼の姿に打たれて、父も一生懸命仲間に相談をしながら、張さんと会社を引き合わせることに成功した。

張さんはその後、日本で学んだノウハウを生かし、中国で会社を立ち上げ多くの従業員を雇い、手広く日本の会社と取引をし、今や会社は大成功しているらしい。

まだつたない日本語で挨拶を交わしたあの日から20年経った今でも、張さんは父に時々連絡をくれるそうだ。中国に家族みんなで来て下さい。と張さんは話しているという。雪祭りの美しい季節にぜひと。

父からこの張さんとの話を聞いた時、中国のイメージが180度変化した。中国の人はキツイどころか、小さな恩を忘れず、温かい気持ちをいつまでも持ち続けている人達だったのだ。声が大きいのが発音の問題だったということだけでなく、私は中国を誤解していたのだ。少しの印象だけで壁を作っていたなんて、私はそんな自分が恥ずかしくなった。

中国に帰国するとき、張さんが父に感謝の気持ちだと言って贈ってくれた食洗機は、今でも修理しながら大切に我が家のキッチンで活躍している。母が言うには16年間使用しているというので、ちょうど私と同い年なのだ。あんなに繋がりが無いと感じていた中国は、一番身近にあり、私の成長を見守っていてくれた。

日本には良い人も悪い人もいる。もちろんそれは他の国でも同じことが言える。私は、一部のメディアで切り取られた負のイメージだけで決めつけてきたのだ。それがどんなにみっともなく、間違っている考えだということをこの出来事から学んだ。国籍や文化などは関係無い。その人自身をまっすぐな目で見ればいいのだ。自分のものさしなどはいらないのだ。以前の私の様な人がいなくなることを心から願っている。

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