筆記具という名の羅針盤

2020-09-10 14:07:30
菊地 里帆子

 

緑色の鉛筆。中国との繋がりを初めて手にしたのは東日本大震災で一文無しになったときだ。津波で全てを失ったとき、世界中から文房具などの支援物資が届いた。目の前で死にゆく人を見た12歳の私に勉学に励む気力は残っていなかった。しかし学校は再開し、多くの応援メッセージが届いた。知らない言語ばかりだった。世界中で凄惨だと報道された災害の当事者を昔からの友のように応援してくれる人がいた。ならば、彼らに感謝を伝える術を得るために机に向かおう。そこで握った鉛筆こそが中国語の書いた緑色の鉛筆である。

中学へ進学し、そこでまた中国との出会いが来る。魯迅の『藤野先生』である。宮城の人間として東北大学で勉強していた彼に感銘を受けた。当時外国人に寛容でないことなど容易に分かる。私は日本史が大好きな学生だったので、彼の背景に思いを馳せて胸を痛めた。「国語の教科書掲載」だからではなく、人として大いに尊敬した。『藤野先生』の中にもいくらか残酷なシーンが出てくる。ただ彼は異国で力を尽くしていた。物的にも知識的にもゼロから勉強を始めた社会的弱者としての自分と重なった。意図せぬ不幸にも能では戦えるのだ、また、異文化でも手を差し伸べてくれるひとはいるのだ、と希望になった。震災以降ペンで戦ってきた。それは勉学も、感情を表現するときも。生き残った自分、幸運にもペンを与えられた自分、できることは言語化して残すことだ。まずは日本語で良い。12歳の自分が知らない言語で書かれたエールを調べて涙したように、誰かが見つけてくれる。結果、得た言葉で海を渡った。だからその地道さを魯迅にも肯定してもらえた気がした。

今春から中国に留学する予定だった。本当は二回生で米国留学を済ませていたので三回生での留学は端から無かった。だが、二回生のクリスマス直前、訪中のチャンスを手にした。荘厳な雰囲気の歴史的建造物には圧倒され、聳え立つ人民大会堂には息を飲んで足を踏み入れた。勿論全て大切な思い出だが企業見学で私はまた彼に出会った。「你所多的是生力」涙を堪えた。目に留めた人はどれほどいただろう。ただ中国の最先端だと紹介された企業に彼は生きていたのだ。引率の方に思いの丈を語り、縁あって留学の話をいただいた。初めは断ろうと思った。だが派遣先を伺って即決した。済南だった。日本史を学ぶ際、中国との事件には国ごと異なる見解があると釘を刺されてきた。大学で中国語を専攻したのは、見解をその言語で読むことで正確に理解できると思ったからだ。正しいか否かよりも多くの情報を寛容に理解できることの方が重要だと思った。震災後命に関わることに臆病になった私が、残虐な事件が起きた場に旅行で行くとは到底思えなかった。留学なら、勉強の為なら、行けるかもしれない。その場で留学を決めた。

結局、行けなかった。パンデミックは予想の遥か上だった。初めは留学中止を嘆いたが、そんな文句を言えないほど世を守るために力を尽くす人々の存在が脳裏を過った。世界は、同じ敵と戦っていた。皆仲間だった。私が被災したとき手を差し伸べてくれたのはこういう名前も知らぬ友だったに違いない。魯迅の言葉を反芻した。私には生きる力が満ちている、砂漠に出会えば共に井戸を掘る友がいるじゃないか。ないものを嘆く暇はない、折角時間ができたんだ木偶の坊になってたまるか。「今」を記すのが私のすべきことだ。成人を迎えたばかりの若輩者が、近くの友のステイホームでの努力を、遠くの友の勇姿を。二十歳の目線で友の美しい生き様を後世に残すんだ。今なら他言語で言葉を残せる。友の姿をより多くの人が目にできるように残すのが今の目標だ。海の向こうから届いた緑色の鉛筆を思い出す。私の羅針盤になるには十分だった。今日もまた見えぬ敵と戦いながら、息をする。今日も生きる。いつか、全ての友に恩返しをするんだと思いながら。また、ペンを握る。

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