想いを紡いで

2020-09-08 11:21:00

 

阿部羅 良枝

89歳になる私の祖父が、幼い頃繰り返し話してくれた戦争体験の中で、ひと際印象に残っているものがある。終戦の2か月前に旧満州へ渡った祖父は、日本の敗戦を中国の地で耳にした。絶望に暮れる間もなく、苦しい生活を余儀なくされていた。日本に帰れず、敵だと思われる祖父らに仕事をくれる者など誰もいなかったからである。働きたいと懇願したが「日本小孩、不要不要!」と、何度も何度も繰り返し追い返された。当時の祖父は現在の私より幾分も歳が若かったが、生きるために必死で中国語を覚えたそうだ。

「日本小孩、不要不要!」思えば、この言葉が私の人生の中で初めて耳にした中国語だった。意味は全く分からなかったが、やたらと耳について離れない不思議な音律に、自然と興味が湧いた。年を重ねるにつれて、その思いは段々、語学的な興味から中国そのものへの興味へと変化していき、大学二年の夏休み、私はついに、かねてから念願していた中国大連の大学に1か月間の短期留学に行く機会を得た。旧満州の玄関口として栄えた大連は、潮の香りをまとい、少し懐かしさを感じさせる町だった。中国の生活にも少しずつ慣れてきたある日、共に研修に参加していた先輩の紹介で、現地で日本語を勉強している中国人の友人に出会った。日本が大好きだと語る彼らは我々を盛大にもてなしてくれ、初めて会ったとは思えないほど、私は彼らに対して強い親近感を抱いていた。

そんなある日、先輩たっての希望で、旅順という街に出かけることになった。日差しが照り付け、近年まれにみるほどの猛暑を記録していたその日、我々は中国人の友人の車で、旅順刑務所に向かっていた。旅順刑務所は日露戦争の際にロシアが建て、のちに日本軍が拡張し、日本の政治犯や共産党員を収容していた実際の監獄を改築したもので、なかには当時拷問をする際に使われていた道具や処刑台が展示されていた。英語、韓国語、中国語で記された悲惨な歴史を目に焼き付けながら、私の心には黒い錘がたまっていった。縮まったと感じていた中国人の友人との関係が崩れていくような不安に駆られた私は彼らの横顔をただ見つめることしかできなかった。戦争を始めた時点で、両国ともにそこに暮らす人々にとっては災難であるからだ。しかし、その時の私の胸にはただ、目の前の友人の大切な祖国を傷つけたことへの謝罪の念と、戦争への恨みだけが募っていった。重い足取りで展示を見終えたとき、一人の中国人の友人が口を開いた。「戦争は憎い。日本兵も憎い。ただ、今の僕の目の前に立っているあなたは私の友人だ」。くらくらするほどの熱気の中で、頭を殴られたような衝撃を受けた。目の前にたたずむ彼は、あらゆる負の歴史を背負う覚悟を決めたうえで、今ここにいる私たちと誠実に向き合おうとしてくれている。その事実がどうしようもなく私の胸を熱くさせた。75年経っても消えない戦争の傷跡を癒してくれるような希望を彼の言葉に見た思いだった。そのあと私たちは海沿いをドライブして、日が暮れるまでたくさん語り、笑いあった。

かつて祖父は戦う為に中国へと渡り、生きるために言葉を覚えた。今、21歳の私の夢は日中友好の懸け橋を築くことである。70年以上前に祖父も見たかもしれない大連の町の夕焼けはとても美しかったが、波打ち際には、言いようのない切なさが押し寄せていた。しかし同時に私の胸にはこの研修で得た大きな希望と学ぶ意欲が燃えていた。歴史的惨劇が二度と起きない世界を創るため、私は今日も中国語を学ぶ。

 

 

 

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