「交剣知愛」で世界に飛躍 中国剣道に尽力の日本人監督

2021-02-18 15:49:49

安田玲美=文

安田玲美(やすだ なるみ)

1972年東京生まれ、岩手育ち。大学で中国語を学び、94年から北京在住。北京日本人剣道同好会所属、剣道四段。

 

幼い頃から中国好きだった私は、少林拳を習いたかった。だが、残念ながら地元・岩手県の小さな町に学ぶ場所はない。仕方なく、少林拳に近いと感じた日本の武道の中から、剣道を選んだ。中国への憧れが転じて剣道を始めた私は、岩手県で剣道一筋の青春時代を送った。その私と中国、剣道、日本人監督を巡る物語を紹介する。

 

中国剣道 北京での幕開け

大学で中国語を学んだ私は、卒業した1994年に中国にやって来た。その時は、中国で剣道ができるとは思っていなかった。しかし2年後の96年から、北京の留学生が日本人経験者に声を掛けて剣道を始め、当地の日本人会にも剣道同好会が発足した。2000年頃になると剣道を習い始める中国人も出てきて、中国剣道の歴史が動き始めた。

06年頃になると、熱心な中国人剣士たちが3年に1度開かれる世界大会(注)出場を目指して本格的に立ち上がった。それから3年後のブラジル大会で、中国代表チームは初めての世界大会出場を果たす。中国チームはその後、この剣道界最大の祭典に4回連続で出場するまでに成長している。

 

長谷部監督に率いられた中国チームは2018年、第17回世界剣道・韓国大会に出場(写真提供・長谷部忠)

わずか10年余りで、このような快挙を成し遂げることができたのはなぜか。そこには、中国剣道を支えた無数の日本人と、中国剣士との「交剣知愛」(剣道を通した互いの理解と尊重)の交流があった。

 

実業団優勝チームの監督

家具販売会社「大塚家具」の剣道部の監督として、女子チームを全日本実業団大会で優勝させた岩谷隆行さん(56)(現在剣道七段)と出会ったのは、03年の上海だった。同社を退社し独立して上海に会社を設立した岩谷先生は、現地で中国人に剣道を教えていた。

私は、上海に出張すると岩谷先生を訪ね、中国人剣士と共に稽古に汗を流した。会社経営で多忙な中、厳しくも愛情あふれる岩谷先生の指導により、上海の剣士たちはめきめきと力を付けていった。

そして08年、ついに中国チームは初の世界大会出場を決めた。出場権獲得までの厳しい道のりを、通訳として協力しながらつぶさに見てきた私には、それは感動の瞬間だった。初舞台は、翌年にブラジルで開かれる第14回世界大会だ。ただ、出場決定の時点で大会本番まではわずか8カ月しかなかった。

記念すべき世界デビュー戦に中国チームを率いる監督は、岩谷先生に決まった。だが時間もなければ資金不足も深刻だった。岩谷先生は、関係者を回って援助を募るとともに、少なくない自己資金までつぎ込みチームを支えた。岩谷先生なくして、中国チームの世界進出という「最初の一歩」はなく、その一歩がなければ、その後の中国剣道の大きな発展もなかっただろう。

 

稽古で中国人剣士を指導する岩谷監督(左)(写真提供・岩谷隆行)

 

高校で剣道専攻の青年監督

中国代表チームの2代目監督になる古江正彦さん(39)(現在剣道五段)と初めて出会ったのは、北京師範大学の体育館だった。古江さんは高校時代、体育科の剣道専攻で剣道一色の日々を過ごした「本格派」だ。その後、中国に留学し北京電影学院にやって来た古江さんは、卒業して帰国するまでの5年間、北京で中国人に剣道を教え続けた。

その古江さんが、世界大会デビューを果たした中国チームから「次のイタリア大会(12年)の監督になってほしい」と請われたのは28歳の時で、大会本番まですでに1年半を切った時期だった。

示された報酬は月額3000元。家賃にも足りない。それでも、「今しかできないことをしたい。貯金を切り崩してでも乗り切ろう」と決めたという。各地で強化練習をする際は、道場の片隅で寝たり、妻もいる選手の家で雑魚寝をしたりして費用を節約した。経済的にも中国チームを支え、中国文化にどっぷりと浸かり中国人剣士たちと共に勝利を目指す、高校以来の剣道漬けの日々は本当に楽しかった、と古江さんは振り返る。

12年5月、中国チーム2回目の世界大会出場となった開催地イタリアで、古江監督は選手たちから30歳の誕生日を祝ってもらった。北京での留学時代から共に汗を流し、この1年半は自ら指導し率いてきた中国チームに笑顔があふれた。

当時、選手だった尹斌さんは古江監督を「人生の師」と仰ぎ、「私は最初から、先生の姿に剣道の美しさと強さを感じていました。今後も先生から教わった厳しくも正しい剣道の道を歩んでいきます」と話す。

気持ちはチーム一丸となったが、成績は男女の団体・個人とも予選敗退と涙を飲んだ。

 

3代目は代表監督の経験者

12年秋、中国チームに3人目の日本人監督が就任した。シンガポール代表チームの監督だった長谷部忠さん(46)(現在剣道六段)である。日本の加工食品メーカー「理研ビタミン」の駐在員として天津に赴任してきたのがきっかけだった。

駐在員として外国で働きながら、代表チームの監督という重責を全うするには、家族の理解と協力が不可欠である。長谷部先生が、中国チームと共に世界を目指して奮闘していたその大変な時期、先生の奥様も病と闘いながら先生を支え応援し続けた。しかし、残念ながら大会開催の半年前に亡くなられた。

15年5月31日、3回目の世界大会出場となった東京大会の最終日。中国チームは男子団体ベスト8入りを決めるスペインとの一戦に臨んでいた。

その重要な試合の残り30秒という時、突然、楊敢峰選手のアキレス腱が切れた。倒れれば棄権となり、チームの敗退が決まる。絶体絶命のその時、楊選手に「頑張れ! 頑張れ!」と叫ぶ長谷部監督と仲間たちの声が届いた。その声援に励まされた楊選手は試合終了まで耐え抜き、見事にチームに勝利をもたらした。こうして中国チームは、出場3回目にしてベスト8入りという快挙を成し遂げた。監督や選手だけではなく、多くの人に支えられてつかんだ栄光である。

 

昨年11月に開かれた北京日本人剣道同好会の剣道イベントでの古江監督(左端)、長谷部監督(左から4人目)と筆者(右端)(写真提供・筆者)

 

夢の舞台でさらなる飛躍期す

56の国と地域が参加し、韓国で開催された18年の第17回世界大会。私は現地で試合を見ていた。4回目の出場となる中国チームは、この大舞台の男子団体1回戦で、3連覇中の日本チームと戦ったが、力及ばず敗れた。この大会も、長谷部先生が監督として中国チームを率いていた。私は中国の五星紅旗を振って懸命に声援を送った。

今年、フランスで開催予定だった第18回世界大会は、新型コロナの影響で残念ながら延期が決まった。私は今、中国剣道と歩んできたこの20年を振り返りながら、中国チームの今後ますますの活躍を信じ、楽しみにしている。

 

(注)世界剣道選手権大会 国際剣道連盟が主催し1970年から3年に1度開催されている世界大会。男女の団体・個人部門がある。第17回大会(2018年)は韓国で開催。男子団体は第14回大会から日本チームが4連覇中。 

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