50年目の証言 ピンポン外交のサポーターが見た米中選手交流の一瞬

2021-06-07 11:26:54

文=フリーライター・土屋康夫

歴史が動くその瞬間に立ちえることはめったにない。運、偶然はむろん、ささやかであっても内に秘めたる志があってこそチャンスにめぐりあうことができる。

50年前、名古屋市で開かれた第31回世界卓球選手権大会最中に、中国選手団の送迎バスにアメリカ選手が乗り込んだ。突然の珍客に車内は凍り付いたが、機転を利かした中国選手のエースがアメリカ選手に歩み寄り、中国・黄山が描かれたペナントを手渡すと温かい空気に一変した。名古屋市在住の横井義一さん(76歳)は中国選手団の自主警備員として、このハプニングの一部始終をすぐそばで目撃、アメリカ選手の通訳を買って出た。

 

グレン・コーワン米国選手が中国選手団のバスに乗り込んで来た時の様子を図で説明する横井義一さん=2021年3月5日、名古屋市内の協和交易株式会社会長室

時計の針をハプニングのあった1971年4月4日に戻す。

東西冷戦の真っただ中。中国の参加を快く思わない右翼の嫌がらせから中国選手団を守るため、日中友好団体などでつくる中国卓球代表団東海歓迎実行委員会は警察とは別に、警備ボランティア「自主警備団」を組織した。

当時、横井さんは26歳。実行委に名を連ねる地元中国貿易商社・協和交易株式会社の社員で、大会期間中、中国選手団に付き添った。会社は名古屋市の繁華街、栄地区の雑居ビルの一室にあり、中国卓球代表団東海歓迎実行委員会の事務局にもなっていたという。

横井さんはその日も中国選手団の送迎バスに同乗、練習会場の愛知県スポーツ会館で選手のウオーミングアップを待つ間、玄関で不審者の出入りに目を光らせた。選手・コーチら全員がバスに戻ったのを見届け、前から2列目の右通路席に座った。

バスが試合会場の愛知県体育館に向けて出発しようとしたとき、「待ってくれ!」とUSAロゴマークのジャージを着た長身の男が乗り込んで来た。肩まで髪を伸ばし、ラフな仕草はアメリカ社会を席巻したヒッピー文化の影響を受けた青年に映った。

あとで判明するが、れっきとしたアメリカ代表卓球選手団のグレン・コーワン選手だった。

「ヒッピー君は『うん? 間違えた』という顔になり、降りようとした。すると左側中ほどに座る役員らしき小太りの男性が『シャンバ(上吧)、シャンバ』と手招きされ、私もバック(back)バックと叫んだ」と横井さんは身振り手振りでその場面を再現する。

声が届いたのかコーワン選手は振り向き、ステップを上がり、横井さんのそばで立ち止まった。選手団から一斉に低い声が上がった。「メイグオレンミン(あっ、アメリカ人だ)」。後部座席の荘則棟選手がすかさずコーワン選手に歩み寄り、黄山の風景が描かれたペナントを手渡した。

コーワン選手はペナントを受け取ると、今度は自分のスポーツバッグを開き、何やらぶつぶつ。横井さんが顔を近づけると、「持ち合わせがないので、あとでホテルに届ける」。中国側通訳に伝えると、今度は拍手が沸き起こった。

 「中国語、英語とも片言ですが、『メイグオレンミン』には『われわれの友達』との温かい思いがこもっていた。そして『bring(持って行く)と『hotel(ホテル)の発音がはっきり聞き取れました。そばの私服警官が『英語が上手ですね』とお世辞を言ってきた」

コーワン選手は空いた席に座り一緒に試合会場へ。「外ではカメラマンが窓ガラス越しに『開けて』とジャスチャーしていましたが、無情にもバスは出発。5分ほどでバスが愛知県体育館正面に近づくと、大勢の報道カメラマンや記者が待ち構えていました」

翌日、コーワン選手が荘選手にTシャツを贈ると、両国の友好ラリーは熱を帯びて行き、大会最終日の4月7日、中国政府が米国選手団を北京に招くというビッグニュースが世界を駆け巡った。

横井さんが愛知県体育館の外で一服していると、(中国選手団の参加をサポートした)日中文化交流協会の村岡久平事務局次長が隣に座り、「びっくりだね。中国がアメリカ選手を北京に招待するんだって」。横井さんは「北京へ? すぐには事態がのみ込めなかった」と苦笑する。

横井さんは社会人2年目だった。1969年、旧東亜同文書院の建学精神を受け継ぐ愛知大学、同大学院を卒業、繊維関係の中国貿易会社に就職したが、年末に協和交易に転職した。

しかし、協和交易の台所はひっ迫していた。翌年夏頃、決済資金が足りないから親に工面してもらってくれないか、と入社半年の社員に社長が泣きついて来た。「『日中友好の社是』と現実の厳しさを思い知らされた」

横井さんは腹立たしさをこらえ、父親に頭を下げた。前の会社で春の広州交易会に出張する数日前、「共産党の国に行ってくれるな」と息子の前に立ちはだかったのは父親だった。「田舎では世間体があった。それでも父は何も言わず50万円を用立ててくれた」

親の有難みを胸に10月、秋の広州交易会に社長と出張、約一か月の滞在中、通訳と仲良くなり、窯業や漢方薬の原料などを上手に買い付けた。

「商談は成功裏に終わった」。友好商社の社員として日中友好に尽くしていこう、と決意を新たに帰国した。

 

出張で初めて訪れた中国・広州交易会の日記の一部(横井義一さん提供)

借金を工面した父親の苦労を後に知ることになる。72年1月、横井さんは結婚披露宴で父親のいとこから「父は田んぼを抵当に農協から借金してくれた」ことを聞いた。「『よっちゃん(義一)は先を見る目があったね』と言われ、父の深い愛情に感謝した」

この間、協和交易は倒産の危機を切り抜け、横井さんは自主警備員として世界卓球選手権名古屋大会で歴史のひとコマに遭遇する。「ピンポン外交」は米中の雪解けや日中国交正常化を後押しする。会社は改革開放の追い風に乗って右肩上がりに業績を伸ばして行った。

「やけを起こして会社を辞めていたら中国選手団の手伝いはむろん、今日のわたしはない。愛知大・大学院OBの誇り、『日中友好の社是に帰れ』という天の声(励ましの)があった」と今も大切にする記念メダルに話を振った。

 

第31回世界卓球選手権大会のサポーターに贈られた記念メダル(横井義一さん提供)

東海を挟んで握手する図柄を『日中友好1971』『第31回世界卓球選手権大会』『中国卓球代表団東海歓迎実行委員会』の文字が囲む。困難が立ちはだかったときこのメダルを見返すといい、創業60年、中国貿易商社の老舗会長として新たな夢の実現に向けてまだまだ奮闘は続く。

 

創業から60年。“日中友好”の社是を継承する協和交易株式会社の横井義一会長=名古屋市内の同社

 

ピンポン外交1971年3月28日から4月7日まで名古屋市の愛知県体育館で、58か国、700選手が参加して開かれた第31回世界卓球選手権大会の裏舞台で生まれた中国とアメリカ両選手の交流を機に米中の雪解け、日中国交正常化につながった。中国の参加は6年ぶりで、日本卓球協会会長の後藤鉀二氏(愛知工業大学学長)が国交のない中国を訪れ周恩来首相と話し合いの末、招聘した。

参考文献:ピンポン外交の軌跡(森武著、川村範行解説、ゆいぽおと)ほか。

 

 

土屋康夫(つちや・やすお)

1951年、岐阜県生まれ。龍谷大学経済学部卒業。岐阜新聞編集委員・論説委員などを経て2011年からフリーランスライター。主著に『カウラの風』(22世紀アート)『海を渡った鯨組の子孫たち』(ゆいぽおと)など。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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