後世に残る中日友好精神 松山バレエ団・清水正夫さん生誕100年

2021-06-29 11:15:10

写真提供=尹建平

2021625日は松山バレエ団創立者清水正夫さんの生誕100周年記念日だ。清水さんの写真を見つめていると、彼と交流した46年間の出来事が思わず次々と心に浮かんできて、あたかも過去が再現され、はっきりと目の前に現れてくるかのようだ。

 

1975年、19歳だった私は中日国交正常化後に初めて訪日した中国北京芸術団のメンバーとして、当時54歳の清水さんと日本で61日間を過ごした。その秋、私は幸運にもこの親切で優しく、満面に笑みをたたえた松山バレエ団創立者と知り合った。私の手の肌が比較的乾燥していたため、初めて握手をしたときに彼が「労働者の手をしていますね」と言ったことを私は今でもはっきりと覚えている。この心優しい年長者が労働者に特別な感情を抱いていることに私は驚いた。彼が自ら人類の労苦と大衆の解放を表現したバレエ劇『白毛女』、ならびにバレエ芸術による積極的な中日民間交流の促進、中日文化交流のために果たした独自の役割、たゆまぬ努力も思い起こさずにはいられなかった。 

 

今でも忘れられないことが幾つかある。訪日の全行程で私たちの世話をしたのが清水さんと松山バレエ団だった。61日間の公演は鳴り物入りといえた。東京から横浜、大阪、京都、奈良、神戸、名古屋、和歌山、下関、札幌、室蘭、苫小牧まで回り、途中で東京に2回戻り、疲れ果てた。朝から晩まで忙しくしている清水さんの姿が全行程の至る所で見られた。芸術団の若い出演者が大食だと気付いた後、彼は食事の量を増やすよう繰り返し頼んだ。出演者が体力をかなり使い、汗を多くかいていたため、彼は夜食のたびにビールを余分に出すよう求めていた。そのアサヒビールやキリンビールの香りは今もまだ舌の先から離れていないかのようだ。ホテルの前に右翼の反中国街宣車が現れたときには、清水さんが入り口に立ち、黙々と警戒しているのがいつも見えた。京都公演の開演直後、「(歌手の)李双江が登場し、『北京頌歌』が流れたとき、ステージの時限爆弾を爆発させる」という右翼からの電話を受けた。非常時に清水さんは速やかに数十人のボディーガードを雇い、ステージの両側をしっかりと囲んで不測の事態を防ぎ、中国の友人に「どうか安心して公演してください。私たちがしっかり守ります」と繰り返し言い聞かせた。2カ月の訪問を終える送別会で、私たちは離れがたい気持ちを抱き、清水さんにしきりに酒を勧めてお礼を述べた。このときの清水さんの言葉は永遠に私の心の奥底に刻まれた。「私は中国を一番愛している日本人です。中国は私たちの先生です。昔の恩に報いることはできません」。これらのことは生涯忘れられない思い出を与えてくれた。

 

 

 

私は東京では毎日、松山バレエ団で稽古とリハーサルをした。清水さんは私の踊りのセンスが欧州に留学した彼の息子にとても似ていると思ったため、とりわけ心を尽くして面倒を見てくれた。中国の出演者に対する彼の誠意と気遣いは私を深く感動させた。この時から私と清水さんは個人的な厚い友情を結んだ。 

 

芸術団の大阪公演で私は急性胃炎になり、清水さんは自ら胃薬を買いに走り、ステージに上がる前に飲ませてくれた。痛みは和らぎ、私は無事に公演できた。その後の連続数回の公演では、清水さんはいつも私の病状を心配し、胃薬を持って袖幕の近くに立っていた。身内のような思いやりにより、若い私の心は温められた。さらに忘れられないのは、松山バレエ団の稽古のとき、清水さんが稽古場の上にある彼の家に私を招いてくれたことだ。彼は毛沢東主席や周恩来総理ら中国の指導者と撮った記念写真を取り出し、通訳を通じて中国文化と舞踏芸術に対する愛情を語り、私に優れた踊り手になるよう望んだ。彼は私の手を取り、「大きな抱負を持っていれば大きな世界が広がる」と懇々と教え諭してくれた。年配者のこの言葉は私の心に深々と刻まれ、その後の芸術追求や人生態度の座右の銘になった。 

 

数十年が静かに過ぎ去っても、私は遠い日本にいる清水さんと松山バレエ団に依然として関心を寄せていた。どんな知らせであっても私の心にはさざ波が起こり、松山バレエ団との関係はなおも続くだろうとぼんやりと感じていた。95年秋のある日、私は北京の香山ホテルで清水さんに偶然会い、久しぶりの再会で私たちは互いに抱き合ってあいさつした。清水さんは感激し、今回は100回目の訪中だ、私と再会できるなんて本当に予想外の縁だと話し、私の手を取って近況を尋ねてきた。私はすでにステージを降りているが、踊りは忘れていないし、音楽からは離れていないと伝えた。彼は私が芸術創作の道で引き続き努力するよう励ましてくれた。 

 

08625日、清水さんが世を去った。亡くなる1カ月前、彼は中国大使館で四川大地震の犠牲者を追悼し、寄付金を出した。清水さんを記念するため、私は歌曲『晩秋』をつくり、彼をしのぶ次のような気持ちを託した。また紅葉が舞い落ちる季節になった。秋風が顔をなでる。落ち葉は山のように積もり、春の泥になり、樹木の根を潤す。紅葉は毎年巡り合うが、人生は一度きりだ。あなたの命はもう美しく咲いてきらめいた。天国で安らかに眠ってください。 

 

21522日、バレエ劇『白毛女』で初代「喜児」を演じた清水さんの妻松山樹子さんが亡くなった。中国外交部(日本の外務省に相当)の趙立堅報道官は524日の定例記者会見で、松山さんは中国の人々の古い友人で、長期にわたって中日友好事業に力を注いでおり、彼女と清水さんが共に中日友好で果たした貢献は中日両国の人々に永遠に銘記されるだろうと述べた。新型コロナウイルス感染症の流行のため、私は自分では弔問に行けず、友人にお願いして花輪をささげてもらった。 

 

 

今日、清水さんの写真をじっと見つめていたとき、日本に渡った唐代の高僧鑑真大師のことを突然思い出した。鑑真は日本の人々の利益のために自分の全てを犠牲にした。円寂してすでに1000年以上過ぎたが、依然として人々の心の中に生きている。清水さんは日中友好協会の責任者だった。生前に100回以上訪中し、毛主席や周総理のほか、鄧小平、李先念、江沢民、胡錦濤ら党と国家の指導者と親しげに接見した。さすが中日民間友好の先駆者、中日文化交流の模範だけのことはあった。清水さんと中国の人々は互いに頼り合っていた。彼はバレエ劇『白毛女』の創作を通じて中国の人々の心を知ったようで、彼の心も中国の人々の心と共に揺れ動いた。中国人は「心に霊犀(れいさい)一点の通ずる有(あ)り(互いの心が通じ合っている)」とよく言う。清水さんと松山バレエ団は中国の人々と苦難を共にした良い友人、古い友人といえる。俗に「海は竜の世界、空は鳥の古里(広い世界でこそ本領を発揮できる)」という。中国は彼らの芸術の海、平和の空にもなった。 

 

21625日は清水さんの生誕100周年記念日だ。清水さんの写真を見つめ、深々とお辞儀して恭しく敬意を表すると、習近平国家主席が「中日民間交流を強化し、平和的発展を共に促し、何代もの友好を共に図ろう」と心を込めて諭すのが耳元に聞こえてきた。 

 

松山異域、風雨同心、

故人已去、精神永存。

(住む場所は異なろうとも、困難には心を一つにする。旧友はもう亡くなったが、その精神は永く後世に残る)

 

筆者紹介

尹建平

著名な芸術家(舞踏家、作詞作曲家、音楽家、演出家)。山東省青島出身。1955年生まれ。幼少の頃から音楽を好み、11歳で二胡を始め、有名な音楽研究者何昌林氏に師事。70年に中国人民解放軍総政治部歌舞団に入団し、中国舞踊の泰斗である賈作光、劉英の両氏に師事。これまでに100曲余りを創作し、個人の音楽や歌曲の作品集6作と歌曲作品の楽譜集1冊、個人の詩集1冊を発表。その作品は中国中央テレビなど国内外の各メディアで繰り返し紹介され、好評を博している。現在は中国国際文化交流センター理事、中国国際文化交流基金会芸術総監督、中国国際文化交流基金会芸術顧問、中国舞踏家協会終身会員、中国音楽著作権協会会員、中国音楽家協会二胡学会会員。

人民中国インターネット版 2021629

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