卓球人生を変えた訪中

2021-07-02 14:18:59

松崎キミ代(談)

 

元卓球選手。1959年の世界卓球選手権大会シングルス、団体優勝をはじめ、日本卓球界の黄金時代を代表する選手の一人として数々の世界タイトルを制覇。97年に世界卓球殿堂入りを果たした。

 

4月28日、バイデン米大統領は就任100日目の演説を行い、中国との競争を強調した。中米間の争いという現状を踏まえ、50年前の「ピンポン外交」が今人々にあらためて振り返られ、再検証されている。「小さな球が大きな球を突き動かした」外交の知恵と勇気や、世界の人々が望む誠意ある交流は、中米関係改善と発展という歴史の道を切り開き、中日国交正常化を促す新たなきっかけともなった。

「ピンポン外交」の兆しは1961年にさかのぼる。この年北京で行われた第26回世界卓球選手権大会は、新中国成立後初の国際スポーツ大会として、各国の選手が競い合い、友情を育んだ記念すべき大会となった。日本の名選手として名高い松崎キミ代さんは、この第26回大会への参加が人生の大きなターニングポイントになり、中国との友情が生まれるきっかけにもなったと語る。

 

遠くて近かった北京

私は61年に北京で開かれた第26回世界卓球選手権大会の日本代表に選ばれ、初めて中国の土を踏んだ。香港で一泊し、中国の入国手続きをして歩いて深圳に入り、3時間くらい待つ間に昼食を取り、中国側の汽車に乗り換えて2時間半ほどかけて広州に向かった。広州で一泊して翌日にプロペラ機で北京に向かったが、途中何カ所かで給油のために止まった。3日前の午前中に羽田を出発し、もう暗くなり始めた頃にようやく北京に着いた。地図で見ると近いのに、随分遠いところまで来たなと感じた。

大会が始まると、今まで経験したことのないプレッシャーを感じた。かつての侵略国から来た日本選手を見る観客の目はとても厳しかった。試合中も日本の選手には拍手の一つもなく、日本選手がミスをすると喜ぶ。中国選手がミスをすると大きなため息をつき、得点を入れると大きな歓声が上がった。まさにアウェーだ。しかし私にとって、笑顔でいることはいつものことだったため、試合中にも自然と笑みがこぼれた。どうやらそれが、周恩来総理にとって印象的だったようだ。

 

周恩来総理のはげまし

  大会終了後に日本選手団の送別会が周総理の主催で開かれ、周総理は私が終始笑顔で対戦していたことを名指しでほめてくださった。「松崎さんの試合は中国人民に深い印象を植え付けた。あなたは負けたが一番だ。あなたは体育館の中でも外でもほほ笑みを絶やさず、勝っておごらず、負けてくじけずというその風格は、中国のスポーツマンが学ばなければいけない姿勢だ」と。

周総理とお会いしたのはこの時が2回目で、初対面は大会前に人民大会堂で開かれた前夜祭だった。周総理は各選手団のテーブルを回ってあいさつしていたが、日本選手団のテーブルに来るとひときわ笑顔で「こんばんは」と日本語で言った。その後の記念撮影では、私は前回の世界選手権でチャンピオンになったからと、周総理の隣に呼ばれた。

試合後の送別の宴では「周恩来総理」と書かれた席の隣に案内され、驚いて緊張した。北京大会で私は準決勝で負け、タイトルを失っている。にもかかわらず周総理の隣の席に座るという名誉なお話をいただいた。周総理との巡り合いがとてもうれしく、幸運を感じた。

 

1961年4月3日、第26回世界卓球選手権大会の歓迎会で周恩来総理は日本チームの選手と記念撮影をした。松崎さん(右から3人目)は送別会では周総理の隣に座った(写真提供・松崎キミ代)

 

試合で結ばれた友情

試合当初こそ緊張もしたが、大会後はすっかり中国を好きになってしまった。日本選手団の世話をしてくれたのが誠実で謙虚なとても良い方で、日本選手はみながその人のことを好きになり、いよいよ帰国という時に女子選手はそろって泣いた。人に好感が持てると、国への印象も良くなるものだ。

中国チームの中には、北京の前に開かれたドルトムント大会に参加した選手もいて、すでに顔見知りだったため、北京でも一緒に公園を散歩したり、親しく話をすることができた。北京大会の中国チームは男女各34人が代表に選ばれていたが、団体戦の代表とは特に交流の機会が多く、周総理のスピーチ以降は特に良くしてもらった。娘の李雋(リー・ジュン。日本名・羽佳純子)さんが日本で活躍している葉佩瓊さんとは今も連絡があり、北京から来日した時に電話をもらって会ったり、李雋さん主催で毎年行われる日中の卓球交流イベントの時には呼ばれたりと、良い関係が続いている。

 

スポーツ交流にささげた人生

今思えば、北京大会は私の卓球人生を変えた大会だった。卓球を介して中国との交流を生涯続けてこられたのも、この大会があったからだ。

私が中国との交流を続けてこられた原動力は三つあると思っている。一つは世界卓球のツートップ同士だからこそ仲良くできたということ。当時の卓球は、日本と中国が世界のトップだった。北京大会では中国がチャンピオンになり、日本は女子が辛くも団体でチャンピオンになった。二つ目は周総理の存在だ。周総理が「今後は日本と中国の卓球交流を毎年やりましょう。双方が行き来することで技術の向上にも役立つし、両国の友好の向上にも役立つ」とおっしゃったことで、毎年友好試合が行われるようになった。三つ目は中国の皆さんがとても親しく接してくれたことで、中国への感情が近しいものになったことだ。

  私は渋谷区からの依頼で、東京オリンピックの聖火ランナーに選ばれている。今年は東京、来年は北京とオリンピックが続く。両国の開催成功を祈るばかりだ。今後も末永くスポーツ交流が続くことを、心から願っている。

(王朝陽=構成

取材協力  中国国際友人研究会)

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