第1回党大会参加党員と日本(上) 日本留学ブームの始まり

2021-07-02 14:18:21

王敏=文

 

王敏(Wang Min)

日本アジア共同体文化協力機構参与

桜美林大学院特任教授

治水神・禹王研究会顧問

国際メディア・女性文化研究所副所長

法政大学名誉教授

拓殖大学・昭和女子大学客員教授

 

戦争の警鐘が促した海外留学

早くも隋・唐時代、日本は留学僧や留学生を中国に20回以上派遣し、中日交流史上初の学問への探求の道を開いた。それから千年後、留学の目的地は逆に明治維新後の日本に移った。

アヘン戦争(1840~42年)が眠れる中国を目覚めさせ、中国は西洋の発展に注目し始めた。中国は1872年、ついに最初の官費留学生30人を米国に派遣した。

中日甲午戦争(1894~95年)の敗戦により、中国は近代化の発展において、日本に学ぶ価値があることを認識し、しかも両国は文化や習慣、文字が似ているため、欧米に行くよりも近くの日本へ留学した方が良いと考えた。こうして終戦の翌年(1896年)、中国はすぐにこの考えを行動に移し、留学生13人を日本に派遣し、発展の経験を求めた。これによって、中国青年の日本留学の幕が開かれた。日露戦争(1904~05年)で日本が勝利したことは、さらに中国の奮起を促し、当時東京に集まった中国人留学生は1万人を超えるまでになった。

 

留学生の父 嘉納治五郎

中国の駐日公使を務めていた裕庚は1896年、日本の外務大臣・西園寺公望と交渉し、日本が中国の公費留学生を受け入れることを求めた。西園寺の友人で、当時の東京高等師範学校の校長を務めていた嘉納治五郎(1860~1938年)が、この要請を積極的に支持した。

嘉納治五郎は、日本の有名な柔道家で、教育者だ。井上毅文部大臣に見いだされて昇進し、日本初の官立の教員養成機関である東京高等師範学校の校長に就任し、約25年間在任した。

嘉納は子どもの頃から漢学が好きで、18歳のときに漢学塾・二松学舎(現在の二松学舎大学)に入学し、その後、東京大学文学部に転学した。妻・須磨子の父は、かつて森有礼公使に随行し、清国を訪問した漢学者の竹添進一郎だ。竹添は『桟雲峡雨日記』を書き、駐天津領事などを務めた。嘉納の周りは漢学の雰囲気に満ちていたと言える。

1902年7月、清末の政治家・洋務派大臣の張之洞の招きで、嘉納は中国に2カ月間滞在し、教育視察を行った。『嘉納治五郎大系』(本の友社 1988年)の第9巻には、彼の「清国巡遊所感」が収録されているが、その文章において、彼は帰国した留学生の憂国の思いと現実の制約との矛盾を記し、それをひどく悲しんでいた。また、嘉納は真心を込めて次のように示した。中国自身の発展の特徴に基づいて、改革のペースは急いではならず、平和的かつ緩やかに進んでいく方がいいだろう。教育の分野では、一般教育や産業教育の発展を推進することが当面の急務だ――今でも嘉納の意図や見解は大きな啓発を与えている。

 

留学生受け入れと矢野文雄

また、他にも中国人の日本留学の促進に多大な貢献を果たした人物がいる。1897年に日本政府が清国に派遣した特命全権公使の矢野文雄(1851~1931年)もその一人だ。在任中、矢野は清朝の重臣筆頭である李鴻章との交游が極めて親密で、中国の人材不足の問題をよく知っており、最初の清国の官費留学生13人の選考と派遣に大きな役割を果たした。2年後、矢野は引き続き留学生の派遣に協力し、さらに日本政府が1900年に「文部省直轄学校外国委託生ニ関スル規程」、翌年に文部省令第十五号「直轄学校外国人特別入学規程」を発布することを後押しした。こうして中国人の日本留学の手続きはいっそう順調になった。

 

中国人留学生の学びや・宏文学院

1896年、第1陣の中国人留学生13人が日本に到着した。その前に、嘉納は留学生のために神田区三崎町に民家を借り、世話係を置いた。そして、東京高等師範学校の教室などの施設を利用して留学生に授業を行った。

99年、嘉納は留学生の宿舎に「亦楽書院」という看板を掲げた。言うまでもなく、「亦楽」とは『論語』の非常に有名な一句「有朋自遠方来、不亦楽乎(朋あり遠方より来る、また楽しからずや)」からとったものだ。その後、いっそう多くの中国人留学生がここに来た。嘉納も正式な教育機関にするためのさまざまな準備を徐々に進めていった。当時の外務大臣・小村寿太郎の支持で、1902年に正式な教育機関への改組申請が認められ、「弘文学院」と改名された。その後、同校は後の文豪・魯迅、辛亥革命の際に活躍した黄興や宋教仁、中国共産党創設者の一人である陳独秀など早期の中国人留学生を迎えた。

牛込区西五軒町に移転した弘文学院の校舎は非常に立派で、ますます人々が重視する中国人留学生育成の中心地となった。1906年時点で、在校生数は1615人に達し、日本最大の中国人留学生のための教育機関となっていた。なお名称は、清の乾隆帝の諱である「弘暦」の「弘」を避けて、「宏文学院」と改められた。教育の形式も中国の需要に対応し、「速成科」に力を入れ、専攻も当時の中国の発展に最も役立つ師範科を中心とした。

「速成科」の修業年限は3カ月から1年半まで多様で、各学科の授業は通訳付きで行われた。後に、「速成科」の弊害に気付いた清政府は、日本の文部省と協同して調整し、「五校特約」を締結した。こうして、08年からの15年間に、165人の留学生が5校に派遣された。この5校とは、第一高等学校、東京高等師範学校、東京高等工業学校、山口高等商業学校、千葉医学専門学校を指す。清政府は学生1人につき毎年200~250円の学費を支払った。

その影響で、宏文学院は時代の発展に順応し、09年に閉校した。7年間という短い期間だったが、その歴史的な使命を立派に果たし、中日が共有する教育史における懸け橋となった。7年間に、同校は留学生7192人を受け入れ、そのうち3810人が卒業し、中国の発展の中核を担う人材となった。2007年、当時の温家宝国務院総理が訪日した際に日本の国会で演説を行い、宏文学院で学んだことのある魯迅について言及した。

昔の遣唐使が日本の文明の進歩に大きく貢献したように、日本へ留学した中国人学生も、近代中国の発展にかけがえのない役割を果たした。今、東京都文京区にある東京高等師範学校の旧跡の一部である「占春園」には、嘉納治五郎の銅像が建っている。まるで今もここで中日両国が育んだ教育の成果を見守っているかのようだ。

 

占春園に建つ嘉納治五郎の銅像(写真提供・筆者)

 

占春園と東京高等師範学校

東京都文京区大塚にある占春園は、もともと1659年に徳川光圀の異母弟・松平頼元が造った庭園で、当時は青山の池田邸、溜池の黒田邸と並んで、江戸の三名園の一つだった。1903年に東京高等師範学校が湯島からここに移転したため、占春園は同校の一部となった。

東京高等師範学校はもともと1872年に東京の湯島に設立された日本最初の官立師範学校である「東京師範学校」だ。1949年には新学制実施に伴って東京教育大学に、1952年には現在の筑波大学の教育学部となった。日本の教育界における「総本山」的存在である。現在、同校の旧跡には占春園だけが残されている。

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