さようなら、松山樹子さん
尹建平=文・写真提供
5月22日、中国人の古い友人、松山バレエ団の創立者の一人であり、バレエ劇『白毛女』のヒロイン・喜児の初代演者である松山樹子さんが98歳で逝去された。訃報を聞いて、私は非常に驚き、残念に思った。私たちが知り合ったのは46年前のこと。生前の声や姿はまだありありと眼前に浮かぶ。私はあの崇高なバレリーナ、そして偉大な女性に対する深い追想にひたった……。
松山樹子さん
1950年代、松山さんは中国の名作歌劇『白毛女』をバレエ化し、ヒロイン・喜児を自ら演じて、中日両国の観衆から熱烈に歓迎された。夫の清水正夫さんは、妻がバレエ事業に最大限に打ち込めるように、好きな建築の道をきっぱりと捨てて、妻の名義で「松山バレエ団」を創立して、団長に就任。その後、長期にわたって古典バレエと現代バレエの創作および中日文化交流事業に力を尽くした。2004年、中国政府は清水さんと松山さん二人に文化交流貢献賞を授与した。
つま先の上のこだわりの心
背が高く、足の形が良かった松山さんは、生まれつきバレエに向いていたため、13歳のとき、日劇のクラシックバレエ科1期生に選ばれ、当時最年少のバレリーナになった。日劇がバレエ公演を行うと、いつも多くの学生が詰め掛けた。清水正夫さんと友人たちは皆バレエが好きで、終演後よく出演者と食事に行っており、そこで松山さんと知り合った。
ある日、友人が松山さんを指しながら、清水さんに向かって、「彼女を特に応援してあげなよ!」というような冗談を言った。その冗談は現実となり、清水さんは後に松山さんの一生の熱心なファンになった。二人きりのデートさえ考えられない時代に、清水さんは松山さんに黄色のハンドバッグを贈った。それは松山さんが初めて男性からもらった贈り物だった。清水さんは心を込めて、「あなたとあなたの仕事は、私が全て引き受けます」と言った。二人はこうして結婚の約束をした。
1947年、二人の結婚のニュースがメディアを騒がせた。当時の松山さんはバレエ界の明日のスターで、一方、清水さんは東京大学工学部建築学科の優秀な学生だった。このお似合いカップルの誕生は美談のはずだったが、当初は清水家の反対に遭った。なぜなら、清水家は由緒正しい家柄で、息子が役者と結婚することを快く思わなかったからだ。しかし、二人の愛情は最終的に家族という難関を突破した。結婚後、松山さんは引き続きバレエを踊り、清水さんは内務省で働いた。二人はバレエがとても好きだったため、友人の支援の下、48年に「松山バレエ団」を創立。同バレエ団は現在も続いている。
松山バレエ団は55年、あるきっかけから中国の「白毛女」を新たなバレエ劇の題材に選び、これによって中国と深い縁を結ぶことになった。当時、歴史的な背景と戦争の要素により、「白毛女」という題材は日本ではあまり歓迎されなかった。だが、まだ有名ではなかったこの小さなバレエ団は、中国を代表する革命の物語を生き生きと上演した。当時、多くの人は好奇心からこの舞台を観たが、シリアスなストーリー、美しい踊りは、物語自体のイデオロギーをすでに超越し、芸術と美の境地に到達していた。松山バレエ団は58年、初めて北京で『白毛女』を上演し、これによって日本では一部の人から共産主義のレッテルを貼り付けられた。しかし、彼らはバレエで自身の信仰とこだわりを表現し、どんな批判を受けてもバレエに対する初心を変えることはなかった。彼らがつま先で支えていたのは、本物の芸術家だけが持っているこだわりの心だった。
「バレエ外交」の使者
清水夫妻にはバレエの他に、愛の結晶がもう一つあった。それは息子の清水哲太郎さんだ。
哲太郎さんは子どもの頃、両親がバレエ団の仕事で忙しかったため、バレエ団か親戚の家で過ごすしかなかった。あるとき、哲太郎さんは交通事故に遭って入院した。母親の松山さんは急いで病院に駆けつけ、哲太郎さんに大事がないのを見て安心したが、心の中ではいつもと違うざわめきが起こった。
その後、松山さんは哲太郎さんに、バレエをやめようかと聞いた。すると、哲太郎さんは大きく目を見開き、首を振って、「あんまり忙しくないバレエを踊ってほしい」と答えた。この一言により、松山さんの心には息子に対する申し訳なさとうれしさが湧き上がった。当時こう言った哲太郎さんは、その後、有名なバレリーナの森下洋子さんと結婚し、家業を継いで松山バレエ団を運営することになった。バレエは彼ら一家にとって欠くことのできない存在なのである。
1970年代の中米関係の雪解けが「ピンポン外交」から始まったとすれば、72年の中日国交正常化のきっかけの一つは、松山バレエ団の訪中公演による「バレエ外交」だといえるだろう。六十数年来、二世代にわたる松山バレエ団の芸術家たちは、たゆまず努力し、中国の「白毛女」の物語を全力で上演し、さらに時代と共に新しいものを生み出し、中日民間友好交流の手本となって、中国の党と国家の歴代の指導者たちから親しく接見され、高く評価された。同バレエ団の現在の理事長である、世界的に有名なバレリーナの森下洋子さんと総代表の清水哲太郎さんは、両親の遺志を継ぎ、中日友好の理念をこれからも貫いていくだろう。
松山樹子さんが演じた白毛女
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筆者は松山バレエ団の二世代の人々と四十数年にわたる友情を築いた。1975年、19歳のとき、私は北京芸術団に随行して訪日し、清水正夫さんと松山樹子さんの心のこもったおもてなしを受け、それから松山バレエ団と深い友情を結ぶこととなった。一代のバレエの女神が亡くなったと聞いて驚いたが、コロナ下のため葬儀に参列できず、非常に残念である。詩をつくって故人を送りたいと思う。
さようなら、松山樹子さん
バレエの明かりがなくなり
太陽は血を飛び散らせている
バレエの火が消え
月は涙を流している
私の心は跪き
涙をぬぐいながら青空に向いている
さようなら
つま先立ちのバレエの女神
松山樹子さん
あなたは中日友好の道のりで
日夜奔走していた
あなたは白毛女の物悲しい白髪姿で
胸を張り頭を上げていた
困難を恐れず
危険を顧みず
富士山の麓で喜児の虹を支え
平和と友情の雄風を巻き起こした
いま
世界は静まり ただ白毛女の音楽だけ
中国にはあなたと松山バレエ団の
革命バレエの舞姿が残された
バレエの明かりがなくなり
太陽は血を飛び散らせている
バレエの火が消え
月は涙を流している
私の心は跪き
かつての声と姿を思い出している
さようなら
つま先立ちのバレエの女神
松山樹子さん
あなたは永遠に私の心で生きている