周恩来と日本(1) 留学前のさまざまな出会い

2021-09-18 09:50:11

王敏=文

張宏喜氏は、著書『新中国外交創始人、奠基者 周恩来(新中国外交の創始者、先駆者 周恩来)』の中で次のように言及している。「さまざまな国の中で、彼(周恩来)の頭の中にいつもあったのは日本だ……日本は彼が初めて見た外国だ……彼は日本と日本人をよく知っていた……(従って)他の人がなかなか思いつかないような良いアイデアを思いつくことができた……対日関係構築のトップランナーは周恩来だ」

熊華源氏と廖心文氏の著書『1950年代の周恩来』の中にも、周氏が亡くなる前に話した「どこにも行きたくないが、日本には行きたい」という言葉が記録されている。

周恩来が日本とその国民に心からの関心と友情を抱くようになったのは、どのような経験からだったのだろうか。筆者はこの連載を通じて、時代ごとに簡単に説明していきたいと考えている。

 

叔父の龔蔭蓀と同盟会

1908年に10歳で母親を亡くした周恩来は、江蘇省淮安市の生家に帰らざるを得ず、博学の龔蔭蓀(母方の叔父)の家塾で教育を受けた。龔蔭蓀は孫文に従った中国同盟会のメンバーで、私財を投じて辛亥革命を支援し、何度も日本を往復したことがあった。また、率先して弁髪を切り、纏足に反対し、「遠出」を口実にふるさとと家族から離れて、革命に身を投じた。

龔蔭蓀の教えと行いは周恩来に大きな影響を与えた。52年、周恩来は龔蔭蓀の娘に、「叔父さんは私の政治思想の啓蒙者だ」と語った。

清代末期の日本留学ブームの高まりによって、中国近代史に登場する多くの有名な人物や革命家が日本と何らかの関係を持った。11年4月27日に広州で発生した反清武装蜂起「黄花崗起義」で犠牲になった「黄花崗七十二烈士」のうち、7人が日本に留学したことがあった。辛亥革命の幕開けとなる武昌蜂起に呼応した昆明重九起義で犠牲になった40人のうち、31人に日本留学の経験があった。辛亥革命に重要な役割を果たした中国同盟会は05年に東京で創設された。初代メンバー963人のうち、860人が留学生や在日中国人だった。

龔蔭蓀を代表とする日本とつながりを持つ革命家たちが、若き日の周恩来のために新しい世界への窓を開き、後に周恩来の日本留学を促す理由の一つになったと言ってもいいだろう。

 

東関模範小学校と陳天華

周恩来は12歳の時、奉天府(今の遼寧省瀋陽市)にいる伯父の周貽賡の家に身を寄せていた。10~13年には奉天省官立東関模範小学校に通った。同小学校は清朝末期の「科挙を廃止し、学校制度を打ち立てる」というブームの中で、05年に建てられた新制小学校だ。記録によると、歴史教師の高戈武はよく児童たちに、陳天華(1875~1905年)の著書『警世鐘』や『猛回頭』などを読ませていた。児童たちも孫文の「打倒清朝、回復中華、樹立民国、地権平等」などの主張に感銘を受けたという。

陳天華は中国近代の民主革命家で、中国同盟会の重要メンバーだ。03年、彼は官費留学生として東京の宏文学院師範科に入学し、04年に法政大学清国留学生法政速成科に入った。05年、陳天華は日本政府が清政府に協力し、留学生の革命参加を阻止するために公布した「清国人を入学せしむる公私立学校に関する規程」に抗議するため、「絶命書」を書いて東京の大森海岸で投身自殺した(享年30)。

陳天華の自殺は当時の中国社会で非常に大きな反響を引き起こした。周恩来が14歳の時に「中華の振興のために勉強する」という志を立てることを促した原因の一つでもあっただろう。

 

張伯苓と南開中学

甲午戦争(1894~95年)の敗戦後、張伯苓(1876~1951年)は、1903年に日本を訪問した。その後、国を救うための教育の重要性を感じて、北洋艦隊から離れて、教育家の厳修らと共に天津で南開中学を創立した。13年秋、周恩来は南開中学に入学し、翌年、同校初の学費免除の生徒となった。その後、周恩来の日本留学中の18年に、張伯苓らは再び日本と欧米の大学を視察し、19年に南開大学を創立した。周恩来も同校最初の学生となった。

創立から100年、同校は「允公允能、日新月異」(公益への奉仕と能力の向上に努め、時代と共に進歩する)という校訓と、教育を通じて国に報いるという理念に基づき、数多くの優れた人材を育てた。中国の総理2人――周恩来と温家宝は同校の出身だ。強い愛国心と危機感を持っていた周恩来は、ここで中日関係の多面的で複雑な性質をより深く感じ取り、そこからプラスとマイナス両面の啓発を得た。

 

2019年10月17日、南開大学は創立100周年の記念日を迎えた。同日、多くの卒業生が母校に戻って、周恩来の彫像の前で記念写真を撮った(cnsphoto)

 

「日本通」の陶大均

1895年、李鴻章は清政府を代表して日本で馬関条約(下関条約)に調印した。日本語通訳の陶大均(1858~1910年)は随行員の一人だった。陶大均は1872年に官費で日本に留学した。その頃、両国間にはまだ正式な留学ルートがなかった。彼は後に横浜の中国領事館などで勤務し、頻繁に両国間を往来した。

陶大均はもとから周家と親戚関係があり、加えて息子の陶尚釗も南開中学で学んでいたため、陶大均は息子を周恩来に託した。その後、周恩来と陶尚釗の二人は一緒にフランスに留学した。勉強熱心な周恩来は、この機会に「日本通」の陶大均に教えを請うたことがあっただろう。周恩来が南開中学で書いた作文のうち、5篇が日本に関するものだった。内容は中日間の不平等条約、日本の政治、軍事などに及んでいた。これも、周恩来が日本について実態を認識する必要性を感じたこと、日本への探究心が生まれたことを示している。

 

北洋法政学堂と于樹徳

1917年7月、周恩来の友人、天津の北洋法政学堂の学生・于樹徳は日本に留学することを決めた。ところが突然奨学金をもらえることになったため、自分が集めた資金の一部で周恩来の日本留学を支援することにした。49年、周恩来は北京飯店で于樹徳と会った時、次のように冗談交じりに話した。「私はまだあなたに300大洋(銀貨)の借金があります。利息を含めると、今でも返済できません。どうすればいいでしょう? 分割で返済するか、または利息を免除してもらえますか?」

06年創立の北洋法政学堂は明治維新時期の日本の法律学校の形式にならい、日本人講師を招いて授業を行った、中国最初の政治・法律学校の一つだ。新中国成立後、同校は南開大学と合併した。李大釗らの有名人も同校で学んだことがある。

17年8月、周恩来は4年ぶりに瀋陽に戻り、伯父や母校の教師、友人たちに別れを告げた。8月30日には、小学校時代の友人に、「中国が世界の強国になった時に再会しよう」という別れの言葉を送った。9月、友人に有名な七言詩を贈り、天津から旅客船に乗って日本へ向かった。

 

 大江歌罷掉頭東,邃密群科済世窮。

 面壁十年図破壁,難酬蹈海亦英雄。

 大江の歌罷みて 頭を掉りて東し、

 邃密なる群科 世の窮れるを済はん。

 面壁十年 壁を破るを図り、

 酬はれ難き 海に蹈みだすも 

 亦た英雄。

(蘇軾の『念奴嬌・赤壁懐古』を吟じ終えて、頭を振り向けて日本へ留学する。深く詳しい諸科学で、世の行き詰まりや貧窮を救おう。十年間、壁に向かって苦学するのは中国を救いたいがため。もしこの志が実現せず、陳天華のように海に身を投げ、国民を覚醒させるとしても、また英雄であるといえるだろう)

この詩は周恩来が日本留学中に書いた日記の扉にも書かれていた。日本はプラスとマイナスの両面から彼を啓発し、志を立てて広い世界に飛び立たせ、日本への探究心も持たせたといえる。

王敏教授、周恩来を語る

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