再び中日交流の懸け橋に 内山書店が天津に「復活」

2021-09-14 15:03:10

陳言=文

今年7月10日、天津市に内山書店がオープンした。

中日民間交流に詳しい人の多くは内山書店を知っている。かつて魯迅が頻繁に通った上海の内山書店は、今日では参観者のためのプレートが旧址に残るのみで、もう書籍は販売されていない。東京の内山書店は以前と同じく神田神保町にあり、中日関係の研究に携わる人にとって、東京に来たら必ず訪れる場所になっている。このほど天津に内山書店ができ、中日の文化交流チャンネルが引き継がれ、1945年に上海の店が閉店してから70年余りの空白に終止符が打たれた。

オープン当日、筆者は北京から天津に駆け付けた。魯迅、郭沫若、郁達夫らの子孫がオープニングセレモニーに参加して座談会を行った。大きなスクリーンに、次のような魯迅の言葉が映し出された。

「据我看来,日本和中国的人們之間,是一定会有互相了解的時候的(私は、日本と中国の人々の間で、きっと理解し合える時が来ると思う)」

  調べてみると、これは中国で出版された内山完造の『一個日本人的中国観』のため、魯迅が35年3月5日に書いた序文の一節だった。魯迅が当時、37年から始まる中国人民による8年にわたる抗日戦争を予見していたかどうかは知るよしもないが、少なくとも35年当時、日本が中国侵略戦争の拡大を続けていくだろうことは、誰もが分かっていたはずだ。中日間で相互理解をどのような方法で進めるべきか、とりわけ中日民間交流をどのような形で維持するかは、今日も依然として一つの重要な課題となっている。

  内山書店から、人々は中日民間文化交流のさまざまな特徴を見ることができる。同書店の天津での出店は、中日間の純粋な民間文化交流がまったく新しいチャンネルを持ち始めたことを人々に感じさせる。人々はここで日本の最新の変化を見いだし、日本に向けて中国の最新状況を伝え、隔たりを乗り越え、「きっと理解し合える時」を迎えることができるかもしれない。

 

天津に新たにオープンした内山書店(写真王衆一/人民中国)


●内山書店の三つの段階

  中国人にとって「藤野先生」「内山完造」は、魯迅作品の中で最もなじみのある日本人だろう。

  魯迅の散文集『朝花夕拾』に収録された『藤野先生』という一文は、中国で長期にわたり中学校の教科書に掲載されており、大部分の中国人が藤野先生についてある程度の知識を持っている。内山完造(1885~1959年)の名は『魯迅日記』に繰り返し登場する。また内山氏は左翼作家との関係が非常に近く、49年の新中国成立以前の左翼文化運動について語る時、内山完造の支援、協力について触れないのはほとんど不可能だ。大部分の中国人は内山氏についてある程度耳にしたことがあり、中日文化交流研究に携わる、あるいは関連の仕事をしている人にとって内山氏は、中国人が日本を理解し、日本との交流に関わるきっかけになっている。

  内山書店は45年に国民政府によって解散させられた後、中国では久しく不在だった。本誌のコラムニストで、中日文化交流研究者の劉檸氏は、内山完造の『花甲録』を翻訳し(九州出版社、2021年1月刊行)、内山完造、内山書店について深く研究している。劉氏は次のように述べている。

  「私は個人的に内山書店の百年の歴史を三つの段階に分けている。最初は上海段階――1945年以前の内山書店で、内山完造が主導した。東京段階は二つの時期に分けられ、35年から戦後の84年までは内山嘉吉が主導した。85年から現在に至る段階では嘉吉の子の内山籬が主導している。この3段階の中では、あるいは継続し、あるいは並行し、実際には前後三つの内山書店があった。まず1917年に創立され、45年に国民政府によって接収された上海内山書店。次に35年に内山完造の考えで、完造の末弟内山嘉吉が東京に開いた東京内山書店。そして、38年に病気療養のため帰国した美喜夫人が長崎に開いた長崎内山書店だ」。

  中国人は、劉氏の言う「上海段階――1945年以前の内山書店」について比較的よく知っている。今年7月10日、天津の内山書店オープン当日には魯迅、郭沫若、郁達夫ら同書店と深い関わりを持った作家たちの子孫が座談会を行い、内山氏がこれらの作家をいかに保護、支援したか、当時の中国の作家たちとどのように交流したかを語った。

  内山氏はなぜ中日が戦争状態にあった当時、日本の軍隊や政府と一線を画し、中国の左翼作家を支援し、中日間の文化交流に積極的に関わったのだろうか? 劉氏は、内山完造が『花甲録』の中で次のように書いていると指摘した。「私の戦争の見透しは最初から変わらない。悲観論の一本槍であった」

  劉氏は「内山完造本人は反戦主義者で、徹底した(日本の中国侵略戦争に対する)悲観論者だった」と考えている。日本軍が中国で次々と侵略戦争の勝利を収め、日本のために多くの土地、人、財産を略奪した時、内山完造はこうした軍政を少しも評価せず、逆に35年という早い時期に2店目の内山書店を日本に開き、10年後の国民政府による上海内山書店接収に備えていた。

  45年以後の内山書店は、次第に東京神田神保町に根を下ろし、中国書籍を専門的に扱う書店になった。53年に本誌『人民中国』が創刊されると、内山書店は一貫して取り扱い、長きにわたる関係を築いてきた。

 

2017年5月26日、上海の四川北路と山陰路の交差点にある上海内山書店の旧跡で、魯迅の一番上の孫の周令飛氏(右)と内山書店の社長の内山籬氏の握手が再び、魯迅と内山完造の二つの家族の90年続く友情を思い起こさせた(写真王浩/人民中国)


●情報交流の場

  筆者が日本に留学し、大学で働いた前後15年ほどの期間、内山書店はもちろん必ず立ち寄る場所だった。

  中国問題に関心を持つ日本の読者は内山書店について、きっと十分に知っているはずだ。劉氏は、中国人にこの店を紹介する時、「85年9月、東京内山書店は創業50周年の年に社屋改築工事が完了した。旧来の店舗は7階建ての内山ビルとなり、1階から3階までが書店となった。百年の老舗が軒を連ねる神田神保町でも、これほど立派な書店はまれだと言える」と話した。

  筆者は同書店に来た時、まず関連書籍、特に本誌の発売、売れ行きを見るのが好きだ。ここに来ると最新号が買え、多くの客がページをめくり、買い求めるのを見ることができ、心の中が特別に落ち着くのを感じる。

  他の書店が同じような書籍を目立つ場所に並べ、客の注意を引こうとするのと異なり、内山書店が扱う刊行物は種類が多く、内容が幅広いことで知られている。同店の店員は本の専門家と言うに足り、探している本が見つからない時は店員に助けを求めれば、たちどころに見つけ出してくれる。置かれている大部分は中国語で書かれた本で、日本語の本もその多くは中国に関係したものだ。中国大陸部の書籍が買えるだけでなく、香港、台湾地区の書籍もかなり多く、さまざまな内容のものがあり、多面的な中国を見ることができる。

  7月10日の座談会では、魯迅の一番上の孫周令飛氏、郭沫若の娘の郭平英氏、欧陽予倩の外孫の欧陽維氏、郁達夫の孫郁俊峰氏らが、それぞれ彼らの上の世代と内山書店の関係について語った。周氏らは、内山書店の営業方法が普通の書店とは異なっていたと考えており、そこでは各界の人士が集い、不定期に討論会が行われ、情報交流の場となっていたという。

  日本の作家、谷崎潤一郎や芥川龍之介らの文化人が中国文化を考察に訪れた時、上海は重要な訪問地の一つだった。彼らは上海滞在期間に、内山書店を通じて多くの中国の文化人と接触した。谷崎や芥川の日記、作品には内山家で食べたものや、そこで出会った中国の文化人についてなど、大量の記録が残されている。

  魯迅ら中国の文化人は、内山書店を通じて日本や世界の最新情報を知り、そこで芸術の方向や国家の未来について熱く議論を交わした。

  21世紀の現在にあって、インターネットがどれだけ発達し、中日経済交流がどれだけ頻繁になっても、また中日関係がどのような紆余曲折を経験し、どれだけ大きな困難に直面しても、内山完造のように中日文化交流に携わり、内山書店式の文化交流形態を運用し、改めて内山書店のような役割を果たす人が必要だ。中国の文化人、メディア関係者はそのために努力していかなければならない。

 

魯迅(左)と内山完造


●天津に開店するまで

  84年8月、中国の出版人趙家璧氏は、中国出版代表団の一員として日本を訪問した際、内山嘉吉氏に会った。劉氏の時代区分に基づけば、日本の内山書店は35年から戦後の84年まで嘉吉氏が主導しており、旧時のやり方を回復し、中日両国でそれぞれ1店ずつ内山書店を営業したいと考えていた。その後、趙氏はさまざまな努力をし、賛同を得ることもあったが、2021年までに上海で内山書店を復活させたいという嘉吉氏の宿願を実現することはできなかった。

  13年になって、天津出身のドキュメンタリー監督趙奇氏が『海外書店』という番組を手掛けた際に、内山家の子孫と知り合って内山家の念願を知り、一種の使命感が涌き起こった。趙氏は数年にわたって内山書店再建のために奔走した。自宅を売り払って書店を再建しようとさえ考え、各方面に出資と力添えを呼び掛けた。19年になって、天津市党委員会宣伝部が趙氏に連絡し、数回にわたる議論を経た後、同市は天津出版伝媒集団が内山書店の再開と営業などの各種事務を担当すると決定した。

  内山家は20年、同集団に「内山書店」の商標を中国で独占排他的に使用する権利を与え、同年8月、同集団は天津内山書店有限公司を設立した。

  今年7月10日、内山書店開店の日、筆者は趙氏がセレモニー全体の司会を務め、座談会で周令飛氏ら文化界人士と内山書店の過去の出来事について語り、すでに内山書店の専門家になっているのを目にした。

  「以書肆為津梁,期文化之交互(書店を懸け橋として、文化交流を期する)」、これは内山完造夫妻の上海にある合葬墓の墓碑に刻まれた文字である。7月10日のオープニングセレモニーと座談会で、趙氏は繰り返しこの言葉を引用した。

  内山書店は、オープン当日の座談会のほか、24日には「もし内山書店がなかったら」と題するサロンを開催した。劉氏と作家の緑茶氏が内山完造と新文化新青年について、内山書店百年の歴史について語った。趙氏は内山書店の責任者として、内山書店が中国と共に歩んだ百年の歴史について総合的に解説した。

  「日本と中国の人々の間で、きっと理解し合える時が来ると思う」。魯迅が内山完造に書き送った言葉を、今日私たちが天津の内山書店で耳にする時、その言葉はかつてと同じように重く響く。私たちは魯迅ら文化人の子孫のように、また不惑の年を過ぎたばかりの趙氏のように、重荷を負って前に進まなければならない。

 

オープニングセレモニーであいさつする内山書店の内山籬会長と内山深社長(写真王衆一/人民中国)

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