周恩来と日本(3) 渡来僧の足跡訪ね——隠元と高泉

2021-10-08 16:31:33

王敏=文・写真提供

1919年4月のある日、学生服を着た一人のりりしい青年が、京都府内にある萬福寺有声軒庭園の石に座って一休みしていた。目の前の芭蕉や松、背後にあるアオギリや孟宗竹などを見回し、中国文化の象徴を映し出す緑の雰囲気に浸っているようだ。その様子を見ていたある老僧が、青年の堂々とした姿に思わず近づいて聞いてみたところ、周翔宇(翔宇は周恩来の字)という名の留学生であることが分かった――。同寺の黄檗文化研究所の田中智誠副所長はこう語り、老僧はこの一瞬の縁が忘れられず、生涯その奇縁を心に刻み、軽々しく口にすることはなかったという。

今年7月14日、筆者は過去の訪問者の名簿を調べに、5回目となる萬福寺を訪れた。田中副所長の話を聞き、ついに百年前のあの石と向き合い、これまでの考察と推測を実証することができた。

 

福建から来日

6世紀に中国から仏教が日本に伝来して以来、代表的な宗派は13を数える。そのうちの一つ禅宗は、さらに臨済宗、曹洞宗、黄檗宗の三つに分かれる。黄檗宗は臨済宗と曹洞宗に比べれば規模が小さい。大本山は京都府宇治市にある萬福寺で、山号(寺院の称号)は黄檗山。開山の宗祖は、度重なる招請に応じて中国・明朝時代の1654年に来日した福建出身の僧侶・隠元隆琦 (1592~1673年)だ。

隠元は1592年11月4日、福州府福清県万安郷の霊得里東林村の林家に生まれた。1620年、古里の黄檗山萬福寺で出家し、僧名(道号)は隠元、法諱は隆琦という。その後、各地で修行を重ね、臨済宗第32代直系の伝承者となった。1654年、長崎・興福寺の逸然性融住職の招きに応じ、63歳の時に弟子30人余りを連れて長崎に到着し、教えを広め始めた。

1660年に後水尾法皇(1596~1680年) の帰依を受け、徳川幕府四代将軍・徳川家綱 (1641~80年)の厚い保護の下、翌年に古里と同名の黄檗山萬福寺を開創した。1673年4月2日、後水尾法皇から「大光普照国師」の称号を与えられ、4月3日、82歳で入寂した。その後、50年ごとの法事(遠忌)に皇室から諡号(僧侶などの死後の尊称)が与えられるのが慣例となり、これまで6回を数える。

 

萬福寺の有声軒庭園で筆者が腰掛けている石には、約100年前、周恩来が座ったという

 

インゲン豆と煎茶道

開山以来、黄檗宗は明の時代の臨済宗の教えを受け継ぎ、坐禅を基本の修行とし、自律を重んじ、教義はシンプルで実践しやすい。また、儒教思想の「己欲立而立人、己欲達而達人」(自分がやりたいと思うことは、まず他人に実現させてあげなさい)、「己所不欲、勿施於人」(自分が望まないことは、他人にもしてはいけない)の精神を取り入れている。萬福寺は、開祖の隠元から13代目までの住職は中国人が務め、その後は日本人が務めているが、今でも唐音で読経し、法事や儀礼も明朝末期と同じ形式を踏襲している。

禅の教えを広めると同時に、隠元と弟子たちは明の時代の建築や文学、医薬、食材と料理など先進的な文化と科学技術をもたらし、人々の生活の質の向上に貢献した。例えば、隠元の名前にちなんで付けられたインゲン豆やスイカ、レンコン、中国風精進料理の「普茶料理」は、隠元が中国から持ち込んだものと言われている。

また、隠元の命日である4月3日は「インゲン豆の日」とされている。隠元は古里のお茶の飲み方を日本に持ち込み、日本の煎茶道の開祖となった。そのため、全日本煎茶道連盟の歴代会長は萬福寺の管長が兼任することが習わしで、同連盟事務局も寺院内に置かれている。

隠元のこのような地元の生活に根差し、大衆化した布教のやり方は、大きな成功を収めた。黄檗宗を開創し、臨済宗と曹洞宗の復興を促しただけでなく、多方面から日本社会の発展を促進し、中日両国の文化交流にも大きく貢献した。研究や参考に値する異文化交流の成功例と言える。現在、萬福寺の周辺には、「黄檗駅」「黄檗公園」「隠元橋」「黄檗パン」など、隠元や黄檗宗にちなんだ名称がたくさんあり、黄檗文化が日本に根付いたことの縮図となっている。

 

高泉性潡と角倉了以

隠元の孫弟子に高泉性潡(1633~95年)という僧がいる。1661年、高泉は29歳の時に隠元の招きで京都の黄檗山萬福寺に入寺。1692 年に萬福寺の第五代住職となった。後世に高泉は黄檗山「中興の祖」としてあがめられた。

京都の嵐山にある大悲閣千光寺の大林道忠住職によると、その頃、同寺の住職が高泉を招き、3カ月にわたって指導してもらったという。高泉はその時、同寺のために『登千光寺』という詩を書いた。筆者は、これは大体1678年頃のことと考える。

 

『登千光寺』

千尺懸崖构梵宮,下臨天地一溪通。

何人治水功如禹,古碣高鐫了以翁。

訳・千光寺に登る

千丈の崖に立つ寺院岩下に谷川を臨む

禹の如き治水の功績何人によるものか

古き石碑は高らかに了以翁の功を刻む

 

この詩は、2014年3月に刊行された『高泉全集』(全4巻)の第2巻・詩文集篇に収められている。同書では、この詩の題名と本文との間に、「寺之左 有了以翁碑 翁闢山谿有功今造像尚存」(寺の左に、角倉了以翁が谷川を開削した功績に関する石碑と彫像が残っている)という小さな序言がある。

「了以翁碑」とは、寺内にある日本の儒学者・林羅山(1583~1657年) が書いた『河道主事 嵯峨吉田了以翁碑銘』の石碑を指す。この碑文の最後に、林羅山は「禹の父で同じ治水をつかさどる鯀は死後、黄熊に変身した」という中国の神話を引用し、日本の「水利の父」と呼ばれる角倉了以(1554~1614年)の治水の功績をたたえた。この石碑を見た高泉は、林羅山の漢学の才能と角倉了以の治水精神に深く感動し、角倉了以を禹に見立てた詩『登千光寺』を詠み、林羅山の碑文の「黄熊」に呼応した。

高泉がこの詩を書いてから240年後の1919年4月5日、周恩来は日本語の教材に載っていた角倉了以と高泉に関する記述を胸に抱き、この寺にやって来た。林羅山の碑文や高泉の詩は、異国にいる周の心をきっと大きく打ったことだろう。

 

大悲閣千光寺の参道入り口には、高泉性潡が記した『登千光寺』の詩碑が立つ

 

華人世界のよりどころ黄檗宗

令和2年版の宗教年鑑によると、現在、日本に黄檗宗に属する寺院は451寺あり、信徒は7万5179人。時代の変化にもかかわらず、黄檗宗は今も脈々と受け継がれている。隠元が日本に渡り、黄檗文化を生み出した過程は、フランスの学者レオン・ヴァンデルメールシュが定義した「文化の転移」の実践とも言える。仏教(禅宗)という形式を取ったが、異国での発展を支える一つの宗派を成した知恵は、明の時代の豊かな中華文明からくみ取ったものとも言える。

注目すべきは、明が滅亡した後、「反清復明(清を倒し明を復活させる)」を旗印に数万人が海外に逃れ、日本や東南アジアなどに明の文化の根を残そうとしたことだ。しかし、この人々は、明朝の復活が望めないという現実をはっきり知ると、異国の地に溶け込もうと努力した。よって、萬福寺も日本で発展する華人世界の心のよりどころとなり、清朝末期から日本に留学してきた中国人学生の郷愁の場ともなった。

明治維新の後、日本にいた華人たちは黄檗宗の旗の下に結集し、興中会、同盟会など同時代の華人団体と連動し、愛国の志士や留学生の活動を惜しみなく支援した。これについて周恩来も知っていたと考えられる。周の日記に華僑団体との交流が記されている上、教科書にも萬福寺と隠元、高泉や嵐山の大悲閣千光寺に関する内容が取り上げられていたからだ。こうしたこともあってか、周は帰国直前、わざわざ京都に立ち寄り、日本で中国文化の種をまいた人々の足跡をたどり、嵐山の大悲閣千光寺と黄檗宗大本山の萬福寺を訪れたと思える。

 

王敏教授、周恩来を語る



 

 

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