周恩来と日本(4) 中日をつなぐ禹の治水の精神

2021-11-26 14:48:39

王敏=文・写真提供

水利施設を巡る京都の旅

1897年に発行された少年向けの総合雑誌『少年世界』に、角倉了以(1554~1614年)の伝記「治水長者」が掲載された。このことは、角倉が当時、模範的な人物とされ、特に日本の青少年に広く宣伝されていたことを反映している。この伝記が掲載されてから20年後の1917年、周恩来は日本語教材から角倉のことを知り、19年3月中旬から4月5日までの間に、京都の嵐山を2回訪れた。そこには、12年に建てられた角倉了以の銅像や、治水工事で亡くなった人々の魂の安息を祈るために建立された大悲閣千光寺があったからだ。

医者の家系に生まれた角倉了以は、海洋貿易に身を投じ、国際貿易の豪商となった。『前橋旧蔵聞書・六』などの資料によると、角倉は禹に倣い、民工を率いて保津川、富士川、天竜川、高瀬川など次々と開削を行った。晩年、彼は琵琶湖の開発を試みたが、その願いを果たせずに61歳で亡くなった。

以上から、周恩来の京都訪問は終始、水利施設と禹の精神を巡って行われたといえる。

 

水力発電に注目

周恩来は1971年1月29日、北京の人民大会堂で日本卓球協会の後藤鉀二会長一行と会見した際に、「私は帰国前に京都に1カ月ほど滞在しました。船に乗り洞窟を通り抜け、琵琶湖に行きました。琵琶湖は大変美しいですね」と語った。

周恩来が当時、琵琶湖行きを選んだこと、そして数十年後に再び琵琶湖に言及したことは、その景色が素晴らしいものだったことを物語っている。しかし、彼が琵琶湖を見に行ったことには、より深い意図があったはずだ。

琵琶湖は日本最大の湖だ。そこから京都へ水を引く「琵琶湖疏水」は日本初の近代的大型土木事業で、設計から施工まで全て日本が独自に完成させたものだ。20年近い苦労の末、1885~90年の第1期に続き、1908~12年にようやく第2期が完成した。「琵琶湖疏水」の完成は、京都およびその周辺地域における水力発電、水運、灌漑、都市防災、衛生・環境保護、生活用水の供給を確保し、日本国内初の営業用水力発電や電気鉄道の誕生にも貢献し、各家庭にも電気を届けた。当時の京都の近代化発展を支えただけでなく、今なお地域の人々の生活を支える重要な役割を担っている。

一方、同時代の天津では、租界などの特殊な地区でしか電灯が使われておらず、周恩来の母校の南開中学周辺を含め、大部分の地域ではまだ灯油ランプを利用していた。この差が、現状を変えたいという周恩来の決意を促した。彼は琵琶湖疏水の水力発電所など関連施設へ何度も見学に訪れた。このことは1919年4月に書かれた『遊日本京都円山公園(日本京都の円山公園に遊ぶ)』と『四次遊円山公園(四度円山公園に遊ぶ)』という二つの詩から分かる。

 

円山公園と南禅寺を訪問

1886年に開園した京都市東山区にある円山公園は、京都で最初の都市公園で、国の名勝に指定されている。園内の人造湖と噴水は、琵琶湖疏水によって誕生したものだ。周恩来は前述の『遊日本京都円山公園』という詩で、人造湖のほとりに柳が弱々しげに立っている景色を描いた。また、『四次遊円山公園』の中には、「灯火熄、游人漸漸稀、我九天西京炎凉飽看(明かりが消え、観光客も少なくなり、私は9日間で京都のさまざまな場所を見学した)」という詩句がある。ここから、周恩来は京都に到着してから9日間で、4回も円山公園を訪れたことが分かる。それほど頻繁に行った最大の理由は、円山公園が琵琶湖疏水の関連施設を見学する際に必ず通過する場所だからだ。

 

琵琶湖疏水によって誕生した円山公園の人造湖

円山公園の近くには、1291年に亀山法皇が開基した臨済宗の名刹・南禅寺がある。境内に入ると、赤れんがで造られた壮大なアーチ型橋脚の空中水路・水路閣が見える。これは琵琶湖疏水の代表的な建物の一つで、西洋の様式を採用しているが、古寺の景観とよく調和しており、違和感がない。1888年に完成した水路閣は、南禅寺の中を通る必要があったため、同寺は数百本の古い松を伐採して土地を提供した。そうして無事に水路の流れの変更が実現した。近くの円山公園にも、人造湖と噴水が造られた。

 

周恩来と禹文化

周恩来のめいの周秉宜さんによると、周恩来の母方の祖父である万青選(1818~98年)は清の末期に、水利建設を重視する地方官で、周恩来は幼い頃から治水に関する知識を多く学んでいたという。また、本籍の紹興は、中国の有名な水郷で、昔から水利建設を重視し、禹を祭る伝統がある。紹興には、大禹陵をはじめとする、禹に関連する遺跡や史跡が120カ所以上ある。治水と禹は、周恩来の生い立ちに大きな影響を与えており、南開中学在学中に書いた作文では9回も禹に言及した。

1997年に出版された『周恩来と故郷・紹興』(杜世嘉、朱順佐著 浙江人民出版社)には次のように記されている。周恩来は39年3月、先祖の墓参りのために紹興に戻った際に、大禹陵にわざわざ立ち寄り、禹王廟を見学した。彼は、禹の彫像の後ろの壁画に描かれた9本の斧に気付き、「九州(中国全土を指す)を象徴しているのでしょう」と笑顔で言った。そして、石碑に刻まれた「大禹陵」という文字に感嘆し、石碑の前と大禹廟の前の階段でそれぞれ記念写真を撮った。

同書には当時の周恩来の発言がもう一つ記されている。「自然との闘いにおいて、禹は先駆者である。科学が芽生えたばかりの時代、自然と闘うことはたやすいことではなかった。中国の歴代統治者は治水の方法を心得ておらず、誘導する方法を知らず、圧迫する方法しか知らなかった。そのため独裁者となり、至る所で人々の抵抗を受けた」。この年の4月2日、周恩来は『東南日報』に故郷・紹興への郷愁をつづった記事を発表し、禹への尊敬の念を表した。「歴史上、紹興の民族精神を代表する英雄は禹と勾践だ。われわれは彼らの忍耐と苦労、そして奮闘する精神を学ばなければならない」

また、周恩来は大禹陵の正殿の後壁に刻まれた「地平天成」という四つの大きな文字に興味を持ち、それが紹興の著名な書家である李生翁の筆跡だと知ると、側近に自分の名刺を持たせ、李氏を訪ねさせたという。周恩来祖籍記念館の資料によると、周恩来は禹王廟の屋根にある康熙帝が書いた「地平天成」という4文字を見て、深く感銘を受けたという。この四字熟語が周恩来の初心と共鳴したからだろう。

禹との切っても切れない関係のため、周恩来は清明節(先祖の墓参りをする日)前日の4月5日に嵐山の大悲閣千光寺を訪れ、中日両国で脈々と受け継がれてきた禹の精神に敬意を表し、再び初心を固めた。また、周恩来は1カ月間の京都での研修旅行を通じて、日本が古代から伝わっている両国共有の禹の精神を生かし、近代的水利事業を完成し、日本人が他に先んじて電気を使う快適な生活を享受したことを深く理解した。

日本に根付いた禹の信仰と禹の精神を受け継いで実践した角倉了以は、漢字圏における異なる地域文化の相互浸透と相互接近の代表的な例だ。また、日本が独自の文化を発展させる過程で、中国の伝統文化を深く借用したことも反映している。

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