周恩来と日本(最終回) 理想の「大同社会」向け奮闘

2021-12-03 18:01:12

王敏=文・写真提供

挫折経て真の目標定まる

周恩来は、1918(大正7)年3月10日の日記にこう書いている。

「東京高等師範の入試が終わってから、とてもいらだっている。7月に第一高等学校(現・東京大学教養学部)の入学試験を受けたいが、しっかり勉強しないと合格の見込みはない。合格したいのなら、今から頑張らなければ絶対に駄目だ。昨日、日比谷公園に行ったとき、これからどうやって勉強しようかと道々考えたが、しばらくして一つの腹案が浮かんできた。今日は昨日考えたことをもとに勉強の予定表を書いた。明日から始めるつもりだ」

残念ながら、両校の試験結果は思うようにはいかなかった。この厳しい事実を前にしても、周恩来は落ち着いていた。入試はあくまでも短期的な目標にすぎなかったので、不合格も長期的な目標を達成する過程での一時的な挫折にすぎなかった。周の長期的な目標は、同じ年の2月15日の日記から答えを見つけることができる。「進化の道に沿って、『大同の世』という理想に最も近く最も新しいことを行おう」


世事を知ることは皆学問

「大同の理想」は、『礼記』(周王朝末期から秦・漢時代の儒者の古礼に関する説を集めた書物)の礼運篇にある。この儒家の古典で描いた「大同」の世は中国式のユートピアと言え、理想的な社会の達成が二つの段階によって実現する。すなわち「小康」と「大同」だ。清末の思想家・康有為(1858~1927年)はこれに基づいて『大同書』を書き、革命家・孫文(1866~1925年)の座右の銘「天下為公」(天下をもって公となす)もここからヒントを得た。

鄧小平は1979年、中国の経済・社会発展の青写真を描く際に、「小康」(ややゆとりのある)を初めて提起。2012年に開かれた中国共産党第18回全国代表大会(18大)の活動報告では、「小康社会の全面的完成」という目標が初めて正式に打ち出された。そして今年7月1日、習近平総書記は北京の天安門広場で開催された中国共産党創立100周年の祝賀大会で、「全党・全国各民族人民の持続的な奮闘を経て、われわれは一つ目の百周年を節目とする奮闘目標を達成し、中華の大地に小康社会を全面的に完成し、絶対的貧困という問題を歴史的に解決した」と宣言した。

歴代の志士仁人は、「大同」の世の実現のために、さまざまな方法やルートを試したが、大きな方向性の変化はなかった。「大同」は時代を超えて中国の人々が意識的に選択したもので、あらゆる時代精神を超越した理想のシンボルだ。周恩来もこの理想を掲げ、日本留学中は授業や書物の知識に埋没することなく、あらゆる社会現象に注目し、その原因を可能な限り追い求めた。周は日記にこのように書いた。

「どこでも学べるのに、なぜ教科書からしか学ばないのか。日本に来たら何事も学びの視点で見て、日本人の一挙一動によく注意すべきだ」

 

三木内閣時代の官房長官だった政治家・井出一太郎氏の自宅にある孫文が書いた「大同」の書

 

理想実現へ三つの「宝物」

どうやって長期的な目標を達成するのか。周の日記にその答えを見ることができる。

「私は今、日本に住んでいる。この国の状況を見ていると、日に日に発展していくようだ。だが、わが国を論じれば、日に日に悪くなり、『積年の弊害は改めにくい』という悪しき現象も日に日に増している。古きを除き新しきに換える、その力も日に日に増していかなければならない」

周は、中国を救い出すこの新たな「力」を、ロシアの十月革命(1917年)の成功経験から学ぶことに託した。周は関連書籍を熟読した後、1918年4月23日の日記に、「社会主義国家の建設にとって、ロシアは最初の実験場だと思う」と書いている。

当時、世界情勢は大きく変化しており、明敏な周恩来はきっと感じるものがあったに違いなく、心の奥底には来るべき変革(五四運動)の意欲が波打っていたのだろう。1918年2月15日の日記には、中国の新文化運動の中心的な役割を担った雑誌『新青年』に対する周の認識の変化の痕跡が見られる。

「中国にいた時は学校のことに追われて、一昨年発行された『新青年』には特に気をつけてはいなかった。本屋で買ってみたが、ただ眼を通しただけで心に入らず、読んだら忘れてしまった。また当時の私は、『漢学』と『古文の模倣』の研究という二つの大きな間違いを犯していたので、改革のために使うという考えなど全くなかった。天津から出発しようとした時、雲君が『新青年』第3巻の4号をくれた。道中で読んで本当に面白いと思った。東京に着いて、季衝(厳智開)のところで『新青年』第3巻の全部を見て、ますますうれしくなった」

この時、周恩来は「大同の理想」を揺るぎない追求として捉え、この目標を実現するための新たな方法を見つけた。18年2月11日の日記には、「第一に、考えるに今よりも新しい思想を考えなければならない。第二に、行うに一番新しいことをしなければならない。第三に、学ぶに最新の学問を学ばなければならない。思想は自由に、行動は誠実に、学問は明白でなければならない」と書いた。そして、この3点を「三宝のごとし」とした。

 

「大同」につながる一筋の光

周恩来は1919年4月、日本で学んだ「新しい思想、新しい事物、最新の学問」を胸に、京都に遊学する中で『雨中嵐山』などの詩を書いた。これらの詩は、周が当時、救国の道を探し求めた心の軌跡を考証する上での重要な文字による根拠である。また、受験の失敗などの挫折を乗り越え、「大同の理想」を貫いた本音が表現されている。『雨中嵐山』の詩を通して、21歳の周恩来の帰国前の心の声を聞くことができる。

 

(前略)

瀟瀟雨,霧蒙濃;

一線陽光穿雲出,愈見姣妍。

人間的万象真理,愈求愈模糊;

模糊中偶然見着一点光明,真愈覚姣妍。

 

雨濛々として霧深く

陽の光雲間より射して

いよいよなまめかし

世のもろもろの真理は

求めるほどに模糊とするも

模糊の中にたまさかに

一点の光明を見出せば

真にいよいよなまめかし

(訳・蔡子民)

 

嵐山には嵯峨天皇(786~842年)の離宮・大覚寺があり、境内の大沢池は中国・湖南省の洞庭湖の景色を模した日本最古の中国式庭園だ。くしくも嵯峨天皇の在位中の年号「大同」も、『礼記・礼運』にある「大同」に由来する。また、嵐山一帯に集中する土木事業家・角倉了以の銅像などは、中国の伝説上の王・禹の治水精神の象徴であり、大同の理想が反映されている。これらは漢字文化圏の「大同の世」への賛同を物語っている。またこの賛同は、日本が古くから漢字を輸入して使用し、数千年にわたって漢字文化を吸収し続けた過程の中で築かれている。

周恩来は、日本滞在や嵐山訪問の実地体験をもとに、新中国の成立後、日本の友人たちに何度も中日の「同文」について言及した。この時、周の頭には、京都や嵐山、そしてそこで出会った人物が結ぶ歴史の映像と、本能的に現れた「大同」の要素が再び浮かんだことだろう。特に、実際に琵琶湖の疏水事業などを調査した後、周は中国を変革し、日本の地で学んだことを生かす自信をさらに深めた。

日本に別れを告げた後、周恩来はマルクス主義という「新知識」を学びながらそれを生かし、中華文明とマルクス主義を結び付ける歴史的な開拓を生涯かけて実践した。日本で学んだ時に見つけた「一筋の光」は、常に「大同」の初心とともに永遠に周の心に残った。だから、最期の時まで周は日本の満開の桜を気に掛けていた。なぜなら、周が信じた「大同の理想」は、日本でも花咲いたからだ。周が生涯にわたり奮闘した原動力は、かつて「一筋の光」を感じた嵐山から生まれ、周が提唱した中日の代々にわたる友好も、新時代の大同理想を開拓する探求が込められている。

関連文章