人生を彩るありふれた機会

2021-10-28 15:12:27

吉村彰洋

彼女が私の「視座」を変えたのかもしれない。

数年前に同い年の中国人女学生と親しくなった。きっかけや成り行きは省くが、彼女とは米国で出会い、一緒に中国を旅行したこともあり、今でも連絡を取り合う仲である。現在開催中の東京五輪では卓球や水泳など日中がライバル関係にあるような競技の話題が熱く、日本と中国を結ぶ長時間のビデオ通話で手元のスマホも非常に熱い。

彼女と関わる中で色々と中国のことを知った。日本では無名なアニメや漫画が中国では人気なこと。辛いもの好きな私だが、中国の辛い料理は水でゆすいでも食べられないくらい強烈なこと。中国の進学・就業制度、恋愛観、I T新興企業。さまざまである。それを機に私は中国に興味を持ち、現在中国語を学習し、大学の卒論では中国の発展について書いたほどだ。彼女との出会いが私の知識経験に少なからず影響を与えている。

そんな多様な話題の中でも印象的なのは、日中関係のリアルでセンシティブな側面である。例えば、日中の歴史。前提として、私がそれまで教育も含め感じた、“中国像”は以下の様である。

「第二次大戦まで、両国は衝突を重ねた。その後関係は改善し、今では領土問題等多少のいざこざはありながらも、貿易や旅行等のビジネスで特に重要なパートナー。最近はテクノロジーの成長がすごいらしい。」

私だけでなくこういう中国のイメージを持つ日本人は数なくないはずだ。そもそも外国や、その国と日本の関係に興味を持たない人もいるだろう。だが中国人側はどうも違う様だ。

ある日、彼女と日中の歴史の話題になった時、いつもの彼女らしい朗らかさから一転、激しい口調になった。私は最初は訳が分からなかったが、話が進むと、日本に戦争を仕掛けられ甚大な被害を受けたことを、中国では決して風化させない出来事として教育を通じて周知させているということがわかった。複雑な気持ちになった。そもそも、戦争の事実や被害を、これまでほぼ受験科目の内容としてしか捉えていなかった自分が情けなくなった気持ちと、幾分彼女に申し訳ない気持ち。一方で私も日本人として何か言いたいような気持ち。これらが交錯した結果、それなりにコミュニケーションを取れていた私の英語は、たちまちしどろもどろになったのを鮮明に覚えている。

さらに聞けば、私たちより上の世代では歴史的な理由などから、日本に対してわだかまりを持つ中国人は多いそう。実際、彼女と中国本土を旅行中、「周りの年配者に日本人だと気付かれないで」と注意されたのが印象的だ。結局気付かれた時もすごく親切に接してくれたが笑。ただ、日本人を忌み嫌う人が一定数いるのは事実だろう。

この体験以前の私のように、外国の実情や日本に対する印象を知らない日本人は多いと思う。知ったところで国際問題の解決に繋がるわけではないが、理解する機会を求める事は、これからグローバルに人と関わる未来を踏まえると重要であり、自身の中で人生の教養になる。

テクノロジーの発達で、海外に行けなくても国の文化、言語は学べる(実際に現地を感じた方が断然良い経験になるが)。加えて、経済成長の頂点を超え、今後一層海外との接点を持つべき日本では、個々人の海外に対する意識を変換する時代に来ていると感じる。

この2つが交差する現代は、人生という時間の中で海の外に目を向け、より多様な生活を送れるチャンスをもたらしているのではないか。こと「遠い隣国」中国に関しては、日本人にとってどこか敬遠の対象と感じる。だからこそ中国に関する能動的な学びや理解が、私たちの知見、価値観、そして運命をもアップデートする一因になり得る。

日本に興味を持つ中国人は非常に多く、オンラインで情報や人間関係は手に入る。環境は整っているのだ。今の日常から一歩足を出し、新しい出会いを求めよう。今の日常からは考えられないような未来の自分が、生活を満喫している。そんな「いつか」に期待して。

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