第二の故郷中国

2021-10-28 16:20:12

清水美空

私にとって中国は第二の故郷です。今でもふと中国で暮らしていたあの時のことを考えると温かい思いやりといつでも陽気な心で接してくれた現地の人・友達とまた一緒に生活したいと思うくらい私の中では人生の中で一番大切で思い出の場所です。

私は、父の仕事の関係で3歳から10歳までの約7年間を家族とともに中国の広東省、孫文の故郷である中山市というところで生活をしました。中山市には日本人学校・インターナショナルスクールはなく、広州の日本人学校に通うには片道2時間かかります。私は現地の私立学校に入学しました。両親とも日本人、当初は家族全員が全く中国語を話せないという状況、中山市内では両親とも日本人という家族は私たちだけでした。

日本語もほぼ通じない幼稚園への入学。最初は全く中国語がわからず、身振り手振りを頼りに周りの真似をしながら幼稚園で過ごしていましたが、そのうちクラスのみんなが私を半分物珍しく、半分は中国の人の良いところである困っているから世話を焼くという優しさから身の回り、日々の過ごし方を教えてくれるようになりました。とりわけ仲良くなった友達とはいつも一緒に勉強や、仲良く遊んでとても楽しい思いでいっぱいの幼稚園生活でした。

その中でも特に私が印象に残っている出来事があります。それは、私が5歳の頃、別の日本人家族が一家で移住してきた家族の2人姉妹が同じ幼稚園に入園をしてきた時のことです。

彼女たちが入園した初日、私は先生に呼ばれました。その際先生は「この子たちは中国語が聞き取れないからあなたが日本語で通訳してね。」と言われました。

私は3歳から中国語を話すことが当たり前のこととして過ごしていたので突然「通訳してね、」と言われてもどうやって日本語で伝えたらよいかわからず戸惑いました。例えば、私の中の解釈は「牛乳」は「ぎゅうにゅう」ではなく「ニュウナイ」であり、それ以外頭に浮かんでこないのです。完全に母国語が中国語になっていたので通訳というのは大変難しいと感じることが多かったです。

姉妹は都度私の精一杯の通訳を介して徐々に先生と話をすることができるようになり、中国語を話せるようになりました。

その後同系列の小学部に上がった私は、幼稚園のときよりさらに勉強が難しくなり毎回の厳しいテストをクリアするのに大変苦労しました。その反面、日本にはない楽しいイベント、ローラーブレードなど多彩なクラブ活動が多く毎日クラブ活動をするのがとても楽しかったです。

ただし、日本人として受け止めなければならない現実も多々ありました。

学校では歴史問題については当然日本人としてはなく、中国の人としての観点から勉強をします。また、その都度日本に対する感情をぶつけられ傷ついたことも多々あります。

過去のこととはいえ、中国の人たちの癒えない傷や怒りが今なおあることも実感しました。

しかし、皆が同じような感情を抱いているのではなく、私を日本人・中国人関係なく真の友人として必死にかばってくれる友人も多くいたのも事実です。私は過去のことは決して消せないが、過去から学んだことを生かし私たちの世代から新たな友好関係を築くことは絶対に実現する。確信をしました。

日本に帰国してから約6年が経過しようとしています。現在は中国語を生かして中国経済・文化を学べる大学への進学を目指して日々中国語の勉強に励んでいます。

学校の帰り道、電車の中から外をふと見ると金色のきれいな夕日が見えることがあります。その夕日を見るたびに、中国の学校時代にスクールバスの中から見た夕日を思い出し、あの頃のきらきらした楽しい日々を思い出すと同時に、今度は中国と日本との懸け橋の役割を担い、そのためには何を自分はするべきなのかを日々自問自答しています。

今の中国の状況を自分の目でしっかりと見つめ、その答えが見つかるまで交流を行っていきたいと思います。

 

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