私の宝物
文・写真提供=尹建平
古今東西、コレクションを得意とする人はこと欠かない。十数年前、私もそれに仲間入りした。だが私の宝物は、皆さんが良く知る書画骨董や宝飾品などではなく、中日民間友好の先駆者たち――日本の松山バレエ団の60余りに及ぶ中国人民との友好交流の証しという記念の品だった。
松山バレエ団の集合写真と清水正夫さんの貴重な直筆原稿
松山バレエ団のこれまでの訪中公演プログラム
全くの偶然だが、先日、所蔵品を整理していたところ携帯電話が鳴った。松山バレエ団からの国際電話だった。今年の中日国交正常化50周年を記念しての訪中についての相談だった。耳元に古い友人の懐かしい声が聞こえてきて、清水哲太郎さんや森下洋子さん、それに長年苦楽を共にしたバレエ界の友人・鄭一鳴の姿が目の前に浮かんできたようだった。
この三人は、それぞれ松山バレエ団の現在の総代表と団長、松山バレエ学校の副校長(中国人)だ。三人は、まさに中国が感染症との闘いを始めて早々、バレエ団全員を率いて中国の国歌『義勇軍行進曲』を高らかに合唱。こうしたユニークな方法で中国と武漢に元気を与え、中国が一日も早く感染症に打ち勝つことを願った。当時、この快挙はまたたく間に動画を通して中華の大地に広く伝わり、億万の中国の人々が感動し、大きな反響を呼んだ。「松山異域、風雨同心」(松山は異国でも、苦難を共にする心は一つ)という8文字の境地は、松山バレエ団そのものに一番良く表れている。
2020年2月、松山バレエ団が『義勇軍行進曲』を歌い中国を応援
中日国交正常化から50年、松山バレエ団の功績は実に代えがたいものがある。早くは1955年(昭和30年)、東京・日比谷公会堂でのバレエ版『白毛女』の初公演により、松山バレエ団はまさにその名に恥じない世界の『赤いバレエ』の草分け的な存在になっただけでなく、さらに主人公の女性「喜児」の目を奪われる舞い姿を、第2次世界大戦後の中日民間交流における友好の旗印へと変え、両国民間の文化交流の推進に大きな役割を果たした。そのため、同バレエ団も中日の「バレエ外交」の使者とたたえられている。
松山版の『白毛女』の歴史は、中日の国交の良好な発展の歴史と言っても過言ではない。松山バレエ団はこれまでに延べ17回訪中しており、両国交流の重要な節目ごとに、この日本の友人たちの姿を目にすることができた。私が最も印象深かったのは、中日国交正常化45周年の時に、松山バレエ団が新たな演出のバレエ劇『白毛女』を携え、人民大会堂に登壇したことだ。彼らは天安門広場に立つ人民英雄記念碑の方に向かい、日本を代表して中国人民に謝罪した。この民族感情と特殊な時期の歴史的制約を超えた振る舞いは、その後、中日国交正常化50年の長い歴史の中で固まっていった。
2017年5月19日、北京の人民大会堂での松山バレエ団による『白毛女』の公演
1970年代の中米関係の雪解けが、「ピンポン外交」から始まったとするならば、72年の中日国交正常化のきっかけの一つは、松山バレエ団が訪中しての公演による「バレエ外交」であるはずだ。60年余りにわたり、2代にわたる松山バレエ団の芸術家は、たゆまず中国の『白毛女』の物語を熱演してきた。また、時代と共に絶えず新しいものを生み出し、中日両国の民間友好交流の模範を創り出してきた。同バレエ団創設者の清水正夫さん・松山樹子さん夫妻と、後継者の清水哲太郎さん・森下洋子さん夫妻には、わが国の毛沢東や周恩来、鄧小平、江沢民、胡錦涛、習近平など歴代の党と国家の指導者が相次いで接見し、高い評価を与えてきた。
1971年、周恩来と握手する森下洋子さん
2009年12月の訪日時、松山バレエ団との記念撮影に収まる習近平氏
松山バレエ団の70年余りの足跡を顧みると、彼らは終始一貫して人類の正義という高みに立ち、日本の中国侵略戦争に対して深く反省している。また常に中日の友好事業のために活躍し声を上げ、友情の小さな火が必ずや中日両国人民の平和の道を照らすと常に確信している。現総代表の清水哲太郎氏はこう話す。「人類が前進する道で、永遠に愛と平和、健康を追求する。自分を光に変え、たいまつに変え、あらゆる闇を照らす。自分が光に変われば、闇は自然に跡形もなく消える。私たちはこの信念を心に刻み、無私の精神で奉仕し、一致団結し、勇敢に前進し、決してあきらめない」
昨年9月、すでに73歳という高齢の森下洋子さんは、かつて原爆で破壊された広島で、彼女の芸歴70周年の記念公演を行い、平和のために生涯踊り続けるという宿願を果たした。また、バレエ芸術で再び、「中日の民間友好を強化し、平和的な発展を共に創り、代々にわたる友好を共に図る」という崇高な理念を実践した。
(前列)清水正夫、松山樹子(後列)清水哲太郎、森下洋子の一家
しかし、長年中国と友好関係を維持する芸術団体である同バレエ団に対し、日本の右翼たちは迫害の限りを尽くした。私は、中国の北京芸術団と共に日本を訪れた時、右翼たちから脅迫を受けたことを覚えている。右翼たちは、李双江が『北京賛歌』を歌う時、劇場に仕掛けた時限爆弾が爆発するという声明を出した。しかし、清水正夫さんが団員を率い脅迫に屈せず守ったことにより、公演は何事もなく進んだのであった。
松山バレエ団の古い友人である私は、この正直で恐れを知らないバレエ団の芸術家たちと中国との半世紀にわたる不思議な縁を思うたびに、ある種の心配と気がかりが胸にまつわりついて離れない。だから私は、ひそかにこう誓いを立てた――全身全霊をかけて松山バレエ団の60年余りにわたる中国との真摯な友情の証しを集め整理し、決して「松山異域、風雨同心」に背かないようにしよう、と。
松山バレエ団の訪中公演の歴史の写真と広報アルバム
国同士の交流の鍵は人々が仲良くすることにあり、人々が仲良くする鍵は常に交流することにあり、常に交流する鍵は心が通じ合うことにある。歴史という大河は勢いよく前に流れて行き、いつまでも止まることはない。しかし、忘れてはならない人や物事は、さまざまな形で人々の心の中に生きている。思うに、もし人々の心を癒すことができる方法があるとしたら、それはきっと真心を持った芸術と、忘れることのできない友情という宝物であるに違いない。
中日国交正常化50周年の年に当たり、私のコレクションを通して真実の歴史と真摯な深い友情、燃えるような時代、確固とした信念を紹介することで、より多くの両国人民が松山バレエ団という親中・愛中・知中・友中の平和の力を知り、理解してくれるよう希望している。
筆者紹介
尹建平
著名な芸術家(舞踏家、作詞作曲家、音楽家、演出家)。山東省青島出身。1955年生まれ。幼少の頃から音楽を好み、11歳で二胡を始め、有名な音楽研究者・何昌林氏に師事。70年に中国人民解放軍総政治部歌舞団に入団し、中国舞踊の泰斗である賈作光、劉英の両氏に師事。これまでに100曲余りを創作し、個人の音楽や歌曲の作品集6作と歌曲作品の楽譜集1冊、個人の詩集1冊を発表。その作品は中国中央テレビなど国内外の各メディアで繰り返し紹介され、好評を博している。現在は中国国際文化交流センター理事、中国国際文化交流基金会芸術総監督、中国国際文化交流基金会芸術顧問、中国舞踏家協会終身会員、中国音楽著作権協会会員、中国音楽家協会二胡学会会員。