北京で触れた日本の職人世界

2022-04-06 11:16:13

汕頭大学長江新聞與伝播学院教授 加藤隆則=文 高璇=写真 

  

コロナ下の北京でも、じかに日本の職人世界に触れることができる。それを目の前で実現させたのが、昨年の年の瀬、12月18日、キヤノン(中国)会議室を借りて行われた第3回「こんにちは」サロンだった。この日は同社の小澤秀樹社長が「笑い」を取り込んだ企業文化を紹介したほか、2人の「職人」が登場した。北京魯迅博物館専属カメラマンの田中政道さんと日本科学技術振興機構北京事務所副所長の横山聡さんだ。 

  

昨年12月18日、キヤノン中国会議室で開かれた第3回「こんにちは」サロン 

  

職人カメラマンの世界 

「こんにちは」サロンを主宰している筆者は、田中さんと10年来の知己で、第3回の会場をキヤノンに決めた際、カメラマンの彼を講演者として迎えるアイデアを思い付いた。まず田中政道ありきで、では何を話してもらおうか、と考えた。 

2人で計5回打ち合わせをする中で、彼がしばしば「職人」という言葉を使うのに注目した。こうして、「職人カメラマンの世界」というテーマが見つかった。彼は東京写真大(現東京工芸大)で写真技術を学んだ後、当時、広告撮影では名門のササキスタジオに20年間、籍を置き、その後、独立して銀座で10年間、自分のスタジオを構えた。計30年間のキャリアを誇る広告カメラマン職人なのだ。 

「こんにちは」サロンの中で田中さんが語った職人の世界とは、内にあっては徒弟制度、外に向けては顧客至上主義の2点だ。 

徒弟制度は言うまでもなく、歴史的に世界各地の手工業に共通してみられる技能習得のシステムだ。中でも日本では、手工業だけでなく、今なお幅広い分野で受け継がれている。田中さんが所属したササキスタジオでも、もっぱら師匠について一から学んでいくという手法がとられていた。 

親が子どもに対し、丁寧に手取り足取り教えてくれるようなわけにはいかない。田中さんに言わせれば、「最初は師匠の雑用だけ。師匠が白と言えば白、黒と言えば黒という世界。まともな人間としても扱ってもらえないので、最初は20~30人採用されたが、1年で半分辞め、3年で2、3人に減って、本当にカメラマンとして残ったのは1、2人だけ」という過酷な環境だ。 

師匠が後継者を育てるため、特に目をかけるわけでもなく、「どうせ辞めるんだろう」程度にしか考えていない。だから、「自分がそばにいて盗み取るしかない。特に職人というのは、言葉が少なくて、頑固偏屈な人が多いから、体で覚えるしかない」というわけだ。 

  

職人カメラマンの世界について語る田中政道さん 

田中さんの言葉からは、地道な苦労の跡がうかがえる。教えてもらえるという受け身の態度では何も学ぶことはできない。自分から進んで求めなければ、何も得られない。 

師匠が弟子の情熱や技術を認めるようになれば、仲間の一人として、撮影術や写真のコンセプト、対象の表現に対する考え方などを教えてくれる。その上で、優れた作品から学ぶ独学が欠かせない。インターネットに資料があふれている時代ではないので、写真集を買うしかないが、他の本に比べ非常に高価だ。田中さんの場合、当時の月給が約7万円で、毎月そのうちの1万円を写真集の購入費に充てていたという。 

次に顧客至上主義についてだが、田中さんからは、職人と芸術家との違いという点から説明があった。職人は師匠から技術の「伝承と継承」をするが、芸術家は、伝統を基礎としながらも、独自の「創造」をする。 

「職人カメラマンはお客さんあっての仕事、お客さんの信頼が第一。お客さんは一枚の写真に会社の命運をかけているので、そのことを大切にしなければならない」 

それが広告カメラマンとしての職人気質だという。 

私は「こんにちは」サロン対談の最後に、徒弟制度のメリットとデメリットについて聞いてみた。 

「職人のいいところは、文化の継承で、先人の業績を勉強し、理解しなければならない。これは絶対に必要なことで、そのためには師匠が不可欠。職人は教えるのが得意ではないので、弟子はそばにいて盗むしかない。ただ、師匠と性格が合わなくて、たとえ才能があっても諦めざるを得ない弟子も出る。一方、職人の世界でも、後継者がだんだん減ってきている。これからは師匠も、技術を伝承するために教え方も研究しなければならない時代だ」 

従来の徒弟制度も時代の潮流に合わせ、発想の転換が求められているのだろう。 

  

笛作り職人の世界 

もう一人の職人、横山さんは、仕事とは全く別に、趣味から手作り職人の世界に飛び込んだユニークなケースだ。埼玉県川越の出身で、幼少のころから毎年10月、地元で開催される川越まつりを見て育った。 

川越まつりはもともと豊作を祝う伝統行事で、地域ごとの山車が練り歩き、囃子連中(町単位の囃子を演奏するグループ)が山車に乗り祭り囃子を演奏する。360年の歴史を有し、2016年にはユネスコの無形文化遺産に登録された。 

横山さんは30歳の時(04年)、川越まつりの囃子連中の一つである北山田囃子連に入会し、以来、毎年、横笛を演奏している。 

彼がユニークなのは、笛を吹くだけでは飽き足らず、独学で笛作りを始めたことだ。09年、東京の和楽器専門店・邦声堂が主宰する笛作りサークル「横笛研究会」に加わり、伝統的な笛作りのほか、祭り囃子以外の日本の古典音楽(雅楽、能楽、長唄、民謡など)の師事を受けた。田中さんが危惧する徒弟制度のデメリットを補完するように、一般の愛好者にも門戸を開いた技術指導の場である。 

同研究会は、ほぼ15人前後の規模で、横山さんによると、「プロとアマは相互の信頼と敬意でつながっている」という。こうした愛好者の集まりは、プロの技術を正しく評価し、学ぼうとする幅広いアマチュア層が、文化の継承を支える重要な存在であることを教えてくれる。 

「こんにちは」サロンで横山さんは、横笛演奏のほか、独特な笛作りに対する思いを語った。日本の横笛は、笹の仲間である「篠竹(女竹)」を使うことが一般的で、天日干しの後、あぶるか煮るかして油を抜き、さらにしなりを矯めて竹を固め、その後2、3年日陰で乾かす。その間に割れたり虫が食ったりするため、実際に使えるのは10本中1、2本程度という。 

横山さんの職人芸は、竹の個性を生かし、作者の考えを押し付けるのではなく、「なりたがっている笛にならせてあげること」にある。まさに人を育てることにも通ずる考え方だ。修練が必要で、また笛作りの醍醐味でもある。 

現在では、笛の修理を頼まれることもあるが、楽器そのものの機能を取り戻すことだけではなく、やはり同じように、それぞれの個性や来歴を尊重することがポイントとなる。修理のために個性を殺しては、別の物になってしまい、持ち主にとって意味がない。修理を依頼される笛の多くは、亡くなった先代の形見など、金額の多寡にかかわらず持ち主にとって思いのこもった笛である。吹き心地や音の抜け、鳴り具合はもちろんのこと、それらを含めた「面影」を取り戻すことが求められる。 

  

3回「こんにちは」サロンで横笛の演奏をする横山聡さん 

横山さんは、「そのため修理に当たってはまず、笛と持ち主との対話を重ねることで、元々の『面影』を感じ取ることが大切。その上で、元の笛が帰ってきたと喜んでもらえると私もうれしくなり、修理して良かったなと思う」と、話してくれた。まさに陶磁器の金継ぎにも似た修復工芸である。 

写真と笛と畑が違う上、技術継承のスタイルも異なるが、田中さんと横山さんの2人に共通しているのは、自分の技術、作品に対する妥協のないこだわりである。師匠から受け継いだ伝統であり、また、その上で自分の個性を探求する道でもある。コロナの影響で人の往来は大きく制限されているが、だからこそ、身近な存在に注目する機会が生まれた。その中で、北京で2人の職人と交流する場を持てたことは、非常に意義深かったと思う。 

  

 

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