きょうから踏み出す一歩

2022-10-26 10:21:13
寺倉 大智

 

2018811日、生まれてこの方地元の京都を離れたことがない私は、中国の生活に対する大きな期待を胸に北京へ降り立った。それは京都から踏み出した、最初の一歩だった。あの一歩なくして、「わたしと中国」は語れない。そして今、また新たな一歩を踏み出そうと思案している。

私と中国との関係は、大学入学時、第二外国語で中国語を選択したことから始まった。「中国語は簡単だろう」と高を括っていたが、授業が始まるや否や、厳密なトーンの識別が要求される声調や、発音のバリエーションの豊富さに圧倒された。発音練習の授業は相当苦痛だった。先生に指名され発音すると十中八九、正確ではないというフィードバックをいただくことになるからだ。恐らく大部分の学習者が通る道ではないだろうか。声調や発音に加えて、文法も日本語と異なる様相を呈している。文のすわりを整え、モノクロームの写真に色を付けるような役割を担う方向補語も、正直に言えば、初めはその存在意義すら理解することができなかった。しかしそんなダイナミックで緻密な中国語に、ゆっくりと惹かれていったことに間違いはない。

中国語の勉強を始めて1年が経過した頃、既に天津で短期留学を経験し、一歩進んだ語学力を身に着けていた学友に啓発され、私はついに日本と一衣帯水の中国に渡航することを決意する。地理的に近い国ではあれ、初めての中国、そして北京。3週間の滞在で経験した風土はこの上なく新鮮だった。聳える山の如く屹立する長城も、見ず知らずの異邦人に甘い西瓜を食べさせてくれた北京のおじさんも、解読不能な食堂の品書きも、より取り見取りの南鑼鼓巷も、全てが私に深い印象を残した。そして短期留学が終わりに近づくにつれ、「いつか必ず帰って来たい」という北京に対する憧れは日に日に強くなっていった。

しかし無情にも、私の宿願は新型コロナウイルスの流行により、儚く消え失せたのである。仕方なく日本で独学を続け、気が付けば中国語検定準1級に合格し、今は小説も読めるようになった。「塞翁が馬」とは言い得て妙だ。しかし目標としていた資格を取得しても、何かが不足しているという思いに終始支配されていた。内向きの孤独な学習は、知識欲を満たすことはできても、達成感へ昇華させることは難しいのだろう。

そんな折、私はご縁に恵まれ、中国語で京都を中心に日本の風情を中国へ発信するライブ配信のキャスターを担当することになった。中国語ではこれを「主播」と呼ぶらしい。ある夏の日、私は京都の四条通の東のはじに位置する八坂神社から、西のはじの松尾まで、徒歩でライブ配信を行い、たくさんの中国人に視聴してもらった。私は京都の街並みをスマホカメラに映しながら実況解説を行い、視聴者はそれにコメントで反応し、そこに対話が生まれる。彼らは日本の文化や日常にまつわる素朴な疑問を、勢いよく投げかけてくる。私は私で「これが日本の郵便ポスト、中国の街中にも郵便ポストはある?」などと、ボールを投げる。するとまたぽつりぽつり、「あるよ」、「中国のポストは緑色だ」と、投げ返してくれる。このように、ライブ配信では離れた場所にいても、言葉のキャッチボールが容易く成立するのだ。そしてこのようなやりとりは、一見するとその場限りのやりとりかもしれないが、ある意味で、京都から日本と中国の間に跨る橋をアップデートする大仕事だと私は捉えている。配信の傍観者から嘲弄されることも時折あるが、発信を継続することで、日中友好の理想像に向かって、より多くの人と歩みを進められると信じている。加えて、今は自分の専門分野の知識を生かした日本語講座のライブを企画中だ。どうなるかは分からないが、あれこれ試すことに意味がある。これらはまだ京から踏み出す小さな一歩にすぎない。続けて小さな一歩を積み重ね、中国への大きな跳躍を試みるのだ。尻込みしていては勿体ない。今日から踏み出そう。

 

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