私の中にありつづける中国

2022-10-26 10:40:18

太田 実来


私は去年、初めてPanda杯を知った。それから1年が経ち、体調を崩し引きこもりがちな私は、毎月の人民中国誌に支えられている。初めて人民中国誌を手にしたとき、時間を忘れ読み続けた。中国文化の考え方は私の心を軽くしてくれた。そして、母方の祖父母が決まって口にしていた「戦争は絶対にダメだ」「助け合わなくてはいけない」「日中友好」という言葉と向き合うきっかけをくれた。長年続いた日本と中国の戦争を思えば、お互いに憎しみ合う関係のはずが、祖父母の口からでる言葉を思うと、二人が体験したことを知りたい思いが強くなった。自分と向き合う時間の中で、中国の思想に心動かされ、祖父母の想いも重なり、私が伝え残せるものを残し続けたいと思った。

祖父は、19歳で兵隊として当時「満州」と呼ばれた中国の東北地方に渡り、林飛行部隊に配属され、1年後に終戦を迎えた。その後は八路軍の捕虜となり、中国空軍の創設時に、教官として飛行機の計測器の技術を中国の少年兵に教えた。

祖母は、16歳で勤労奉仕隊の一員として「満州」へ渡るが、帰国することなく、そのわずか6ヵ月後に終戦を迎えた。開拓団へ逃れながら、炭鉱では子守として働き、その後は看護婦見習いとして中国人との出逢いに助けられ、日々を生き延びた。その後二人は出逢い、北京で結婚し、日本へ帰国できたのは敗戦から13年後のことだった。

祖父は、中国航空学校での教官体験を手記として残している。お互い言葉の通じない壁の中で、学生の熱心な精神が伝わり、困難な仕事をやり遂げ、共に喜びを感じたこと。日本の軍隊の中では日常茶飯事であった殴打は、中国の八路軍では許されず、人は心をこめて教育するものであるという教育思想の違いで、一人の敗戦国の捕虜である自分が尊敬と労りを受けたこと。共に助け合い苦難を乗り越え、兄弟のような消える事のない深い友情で結ばれたことで、忘れられない青春の日々を過ごしたこと。祖父の人生から、どんなに憎しみ合っても人は分かり合えるということを感じた。

井戸掘り人の恩を忘れないという中国の思想は、1986年の中国空軍創立40周年記念日に日本人教官達を北京に招待した。祖父は、2007年の訪中の際、青春時代を共にした仲間のお墓に中国人と共に松の木を植樹し、その時の感想文に「私の青春時代が中国空軍創設のために役立ったことを一生の誇りとして、この感激を孫の代まで伝えて行こうと強く、強く思いました。」と残している。今、祖父の想いはしっかりと私の中にある。

祖父が亡くなり、元気がなかった祖母だったが、90歳で「海を渡っていった少女」と題して戦争体験記を本として残すという夢を叶えた。私はその作成を手伝うなかで、祖母の言葉の想いを見たような気がした。襲撃を受けながらも、命を繋ぐ日々を過ごし、炭鉱での子守で、日本人でありながら、一人の農民の娘であるとされ、同じ働く仲間としての扱いを受けたこと。中国の人たちのあたたかい心遣いに触れながら、かつて戦争をし合った国で生まれた愛情に人生観が変わっていったこと。そして、その想いから、自身の戦争体験記を声にだして伝える活動を続けていたことを知った。祖母は、帰国から20数年後、炭鉱で子守として過ごした一家の消息を探しあてることができ、文通を始めた。祖母がいつも中国語の練習をしていたのは、文通の為であり、中国に会いに行くという強い決意からだったことを知った。祖父母の家に大切に保管されている手紙を見て、苦難を共にし、心の国境を越えた祖母たちの強い絆を感じた。

そんな祖母も、去年亡くなった。祖父母のお墓には「友好」の文字が刻まれている。祖父母が亡くなった今、残された「友好の証」の数々を前にして、中国語を読めるようになり、想いを繋いでいきたいという気持ちが強くなっている。残されたものから感じることが私を支えているから。

 

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