『石ころの生涯』と私

2023-06-12 16:59:00

・写真提供=桜美林大学大学院二年生  春蘭 

私は清水安三の自伝『石ころの生涯』との出会いに非常に感謝しています。なぜなら、まず、私の研究の第一歩が順調に進んだのは、この著書を読んでいたからです。 

その経緯を述べてみたいと思います。私は9月に桜美林大学大学院に入学しました。修士論文の研究テーマは桜美林学園創立者の清水安三と中国です。入学後すぐの10月、安三先生の故郷である滋賀県高島市にある「清水安三記念館」館長の清水賢一氏(清水安三の嫡孫)にアポを取って、見学に行こうと思いました。ところが、出発する前に清水館長から電話があって、次のような質問を受けました。  

「呉さんは、『石ころの生涯』を読んだことがありますか?また、『朝陽門外の虹』、『希望を失わず』は?中国人留学生の李紅衛氏(お茶の水女子大学)の博士論文をご存じですか?」と。私は、全てYESと回答し、ようやく記念館の見学が許可されました。その時、『石ころの生涯』を読んでいてよかったと思いました。  

その見学によって、安三先生の生家、少年時代過ごしていた環境を自分の目で確かめることができました。その後、再び『石ころの生涯』を読むと、更に安三先生の精神世界に近づくことができたように感じました。  

訪問した時、私は自作の短歌一首を短冊に書いて清水館長に差し上げました。その歌は、「温かいメッセージは 清水の如し 奥琵琶湖より 佐保川へと来る」です。当時、私は佐保川の近くに住んでいたのです。すると、帰り際に館長から返礼歌をいただきました。 

「佐保姫の 安曇の川面に舞降りて 藤樹の里に 学ぶいにしえ」私は大変感動しました。清水館長の歌に信頼を感じた私は、今の研究に没頭しようと決意しました。 

  

 「清水安三記念館」にて(写真・清水淑子) 

左から筆者、一井久子副館長、「清水安三先生顕彰会」足立清勝会長、清水賢一館長 

  

しかし、研究の道は順調な道ではなかったです。入学翌年の5月より予想外の出来事が生じていたので、モチベーションが下がってしまいました。  

気分転換として、東京国立博物館創立150年記念・特別展「国宝 東京国立博物館のすべて」の中国語翻訳の依頼を受け、パネルの挨拶文から作品の解説文までを翻訳しました。やり甲斐のある仕事だと思い、達成感で一杯でした。しかし、一方では、もう留学生活をやめて、「自分の国に帰ろう」と思うようになっていました。  

その時、ある日本人の先生が丁寧に助言して下さいました。「呉さんは、今まで苦しみながら行った調査、今まで書き上げた54枚の修論原稿は、全部投げ捨ててもいいのですか?」と。「だって、〇〇先生は私の原稿を読んで下さらないですよ」と、私は心情を打ち開けました。先生は、「呉さんは一人ぼっちではないですよ。あなたの発表を期待している方もいますよ。頑張ってください」と励まして下さいました。  

さて、『石ころの生涯』に安三先生と魯迅の友情が描かれています。北京で魯迅と親交を深めていた安三先生が、魯迅の気持ちを最もよく知っていた日本人ではないだろうか、と思うようになりました。  

20歳の魯迅は1904年仙台に留学し、恩師藤野厳九郎と出会っています。魯迅は、「私の提出したノートは、初めから終わりまで、全部朱筆で添削してあった。多くの抜けた箇所が書き加えられているばかりでなく、文法の誤りまで、一々訂正してあるのだ。」と、自分の著作『藤野先生』に謝意を込めて書いています。  

『石ころの生涯』の中国語版には、なぜ魯迅は生涯にわたって内山完造らの日本人に優しかったのかについて、安三先生は、魯迅は留学中に恩師藤野先生と出会ったからであると述べています。私もその通りだと思います。なぜなら、118年前の留学生魯迅の恩師への謝意には、私にも強く共感できるところがあるからです。  

私にとって非常にラッキだったのは、辛いことが沢山あった中でも、桜美林大学で恩師と言える方々と出会えたことです。将来、私が帰国した時、北京にいる日本人に優しく接することができるとすれば、それは日本留学中にお世話になった方々への感謝と恩返しの気持ちから生まれるものではないかと思います。 

『石ころの生涯』中国語版のタイトルは《朝阳外的清水安三一个基督徒教育家在中日两国的经历です。李恩民、張利利、邢麗荃諸先生によって完璧に翻訳されています。私はこの本から、清水安三の波乱万丈の人生を知ることができただけではなく、励まされてきました。嬉しいことに、貴重なこの本を李恩民先生から一冊頂きました。貴重な資料及び人生の友とも言えるこの本を、大切にしていきたいです。  

 

『石ころの生涯』(清水安三)および中国語翻訳版(李恩民、張利利、邢荃訳) 

  

安三先生の前妻である美穂先生は崇貞女子工読学校(崇貞学園の前身)の校長でした。そこには、美穂先生の記念碑があり、校庭には遺骨が眠っています。帰国したら、清水安三ご夫婦が1921年北京に創立した崇貞学園(現:陳経綸中学)に行きたいです。なぜならば、美穂先生に「桜美林大学の創立100周年の年に、清水安三の研究をしました」と、報告したいからです。  

最後に、中国人の気持ちを最も理解してくださった清水先生ご夫婦に心から感謝申し上げたいと思います。 

  

本文は桜美林学園同窓会が主催する学園100周年記念事業「在校生・在学生感想文コンクール」で佳作賞を受賞した。 

 

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