心つなぐ「漢詩-俳句」交流
李家祺=文
中日平和友好条約の締結から45年。両国民は長年にわたり、さまざまな形の文化交流で心と心のつながりを深めてきた。中でも、共通の漢字文化圏をバックグラウンドとして繰り広げられてきた詩歌の交流は、際立った輝きを放っている。中日友好協会の元理事で、中国漢俳協会副秘書長、中日俳句交流会「聊楽句会」の代表を務める俳人の董振華さん(51)が今夏、北京のアジア太平洋広報センターで俳句についての座談会を開いた。董さんは俳句に関する豊かな知識を披露するとともに、日本で「聊楽句会」を立ち上げた経緯や中日の文化交流に取り組んできた経験や思いを紹介した。座談会には、アジア太平洋広報センターの王衆一特別顧問や中国中央ラジオテレビ日本語部(旧北京放送)の王小燕キャスター、北京第二外国語大学の熊仁芳・大学院指導教員、北京師範大学で博士号を取得したばかりの張雪栄さん、三聯書店の編集者・趙慶豊さんなど、詩と俳句の中国人愛好家10人余りが参加。中国の詩歌と俳句文化が交流し合う中での発展や、俳句や漢俳(中国語による俳句)が近年の両国の文化交流において果たした役割などについて話し合った。
董振華さん
国交回復から民間交流へ
座談会で董さんは、自身が俳句創作を始めた経緯や約400年に及ぶ俳句の歴史、季語、漢俳の起源、川柳などについて紹介した。
董さんが中日友好協会で働いていた1990年代、日本の俳人で現代俳句協会名誉会長の金子兜太氏(1919〜2018年)と出会った。第2次世界大戦中、金子さんは従軍先の太平洋のトラック島で味わった悲惨な体験から確固とした反戦平和主義者となった。金子さんは、現代の日本社会では戦争の記憶が次第に薄れていってるが、戦争を経験した者として、生きている限りその痛ましい歴史と教訓を後世に伝えていく責任がある、と考えていた。「私の俳句が平和に貢献し、より良い明日を作ることを願っています」と金子さんは語っていたという。
左の写真は董さん(後ろ)と金子兜太氏。右の写真は董さんの著書
その後、董さんは金子さんと妻皆子さんに師事して俳句を学び始めた。董さんは後に日本に留学、暮らしながらさらに深く俳句を研究した。
兜太さんは2018年に亡くなったが、董さんは師の遺志を継いで引き続き中日の文化交流を促進。兜太さんから受けた「聊楽」の揮毫を借りて、中日俳句交流会「聊楽句会」を日本で立ち上げた。現在、「聊楽句会」には中日両国の俳句愛好家30人以上が参加しており、オンラインでの投句や選評を通した交流を展開するほか、毎年オフラインでの吟行会や句誌の発行なども行っている。
「私は10年以上前から俳句と漢俳で自分の思いを表現し始めました」。座談会のメンバーの王衆一さんはこう振り返った。「作り続けていくうちに、自分の句境はやはり漢詩の世界に近いと思いました。俳句と漢詩は形式や表現方法は異なりますが、源流をたどれば、俳句の誕生は中国の古典文学の影響を受けていると思います。だからこそ、やはり両者には通じ合う部分があると思っています」
また張雪栄さんは、今年から「聊楽句会」に入り、俳句作りに励んでいる。「小さい頃から中国の詩が好きで、俳句の中には中国古典文化の交流と継承が感じられます。俳句という形で中日文化交流の参加者や推進役になりたいと思っています」と張さんはうれしそうに語る。
「聊楽句会」では、メンバーたちがSNSのチャットグループを通して創作した俳句を毎週発表。董さんが選句と句評を受け持ち、中国の「詩」と日本の「句」の愛好家をつなぐ場となっている。「この活動は実際、国交の正常化から民間交流の『正常化』への半世紀にわたる変化を反映しています」と王さんは話す。「今は、さまざまな形の民間交流が両国民の間に広く存在しています」
「詩」と「句」の伝承を促進
漢俳は、「五・七・五」という17字の漢字だけで作られた中国語の詩だ。座談会では、董さんが「漢俳」の誕生と発展の歴史を振り返った。
1980年に日本の俳人訪中団が北京を訪れた時、北海公園内にある宮廷料理で有名なレストラン「仿膳飯荘」で歓迎会が開かれた。そこで、当時の中国仏教協会の趙樸初会長が次の17字の句を詠んだ。
緑陰今雨来 山花枝接海花開 和風起漢俳
(緑陰 今雨来り 山花の枝 海花に接して開く 和風 漢俳を起す)
後に、これは初めての漢俳作品とされた。
「漢俳は中日の文化交流の中で生まれたもので、中国人の独特の創意工夫が秘められています」と王さんは解説する。「『漢俳』と聞いたら、すなわち俳句だと思う人もいるかもしれませんが、実際は別のもので、漢俳は中国の詩や歌などの古典文学を土台にした一種のミニサイズの漢詩、言ってみれば『ミニ詩歌』と言えるかもしれませんね」
春夏秋冬という四季の移り変わりの中で生まれた「季語」の扱いは、俳句と漢俳の大きな違いの一つだ。生活環境や文化的背景などの違いから、一部の季語の意味については理解もおのずと異なってくる。近年、俳句は世界無形文化遺産への登録を目指しており、これに対し王さんは、海外の生活様式や風土・環境に合った、ある土地の季節をイメージする語句が、果たして(どこでも共通する)季語として認められるのか、という問題を提起している。
「例えば、オーストラリアであれば、南十字星を季語に取り入れることを検討する必要があるのか、という問題ですね」と王さんは言う。「私たちは、やはり『美人之美』(それぞれの美しさ)を大切にすべきだと思います。つまり、他人が美しいと思うものを理解し、それを楽しむ能力を養うべきだと思うのです。そして自分が美しいと思うものを創り出していく。こうした他者との美しさの共有を追求する過程では、おそらく受け入れる側の革新と創意工夫が必要で、送り出す側も文化の変容を認める懐の深さも必要かと思います」
2016年、中国の「二十四節気」がユネスコの世界無形文化遺産に登録された。これを機に、『人民中国』は誌面とSNS微信(ウィーチャット)の公式アカウントで『節気と花』『俳人がうたう二十四節気と花』の連載を始めた。折々の節気にふさわしい俳句を選び、それを漢詩や漢俳の形に訳す。また読者から投稿された秀作を掲載するなど、読者と活発な「交流」を実現した。
「中国も日本も、人々は古くから四季の移り変わりに思いを託してきました。自然の変化のリズムを詩や俳句で表現することは、両国の読者に強い共感を呼び起こしました」と王さんは紹介する。
「私にとって俳句と漢俳の世界を思う存分に楽しむのは、互いの文化やその素晴らしさを楽しむことであり、また、日本語と中国語の詩的表現を磨き上げることにも役立っています」と言う王さん。「形式にこだわらず言外の意味を訳し出す試みは、翻訳者として達成感を感じます。また、俳句と漢俳の相互交流と刺激は、大きな意味で中日の文化交流を促進すると言えます」
今年は、盛唐時代(712~765年)の有名な詩人が多く登場する中国風アニメ『長安三万里』などの作品が上映され、人々の詩歌への熱意を再び呼び起こした。座談会の参加者たちは、中国の詩歌文化の継承において、俳句からインスピレーションを得られると考えている。日本では、老若男女が俳句作りを試みている。小学生が作った俳句は拙いかもしれないが、俳句としての魅力が感じられる。中国の詩歌文化を発展させる過程でも、多くの人々が詩歌の創作に積極的に取り組むよう奨励するべきだ。
座談会の参加者の一人、編集者の趙慶豊さんは、現状を見据えてこう締めくくった。「現在、中国で詩歌文化を発信する形としては、暗唱や内容を読み解くことが主流ですが、この文化を継承するには『ただ読むだけ』ではいけないと思います。より多くの人が詩や歌を創るようになれば、この文化の真髄を味わうことにより役立つと思います」