私の第2のふるさと中国

2023-10-23 15:55:00

福田 真琳


私にはふるさとが2つあります。生まれたふるさとである中国の上海と国籍のある育ったふるさとの長崎です。私は父の仕事の駐在地であった上海にて、三人兄弟の末っ子として生まれました。一時的な帰国はありましたが、小学2年生までの約7年間を上海で過ごしました。

上海での生活は、家の中は日本・外は中国・幼稚園と学校は国際学校であったため、私は多国籍の環境で育ちました。そこで、様々な国籍の人と中国語や英語、日本語を使って交流をし、助けてもらうこともありました。私の両親は中国語を話せるため生活には困りませんでしたが、兄と姉と私、それぞれの学校の用事に忙しい母を中国人の李さんがいつも手伝いに来てくれていました。李さんは故郷の安徽省に幼い息子さんを残して夫婦で上海へ働きにでてきた女性です。家族は「李さん」と呼び私は「アーイー」と呼んでいました。「アーイー」は幼稚園に迎えに来てくれたり留守番の時おんぶしてこっそりお菓子を買いにつれて行ってくれたりいつも優しくしてくれました。私も簡単な中国語で会話をしていたようです。母は李さんから料理を教えてもらったり日本料理を教えたりして本当に助けてもらったと、今でも『李さんスープ』(トマトと卵の中華スープ)は我が家の定番メニューです。長い休みの春節には李さんがふるさとへ帰るので我が家は困ってしまうのですが李さんの息子さんはお母さんと年に数回しか会うことができないのかと思うと、家族で一緒に暮らせることがとても幸せなことだと感じることができました。

また、中国では若い人だけでなく年配の方も音楽やダンスを日常生活のなかで楽しんでいました。涼しい時間帯になると路上で二胡を奏でる人、広場で太極拳や音楽をかけて日本の盆踊りのような踊りを集団で踊ったり、公園には子供の遊具の他にお年寄り向けの健康器具もありました。せっかく上海にいるのだからと母は私たち兄弟に楽器と運動の習い事をするという決まりを作りました。私はヴァイオリンとバレエを選び中国人の先生に習い始めました。選んだ理由は近所の楽器屋さんのヴァイオリンが小さくてとてもかわいかったのとバレエは体が柔らかく飛び跳ねるのが好きだったからです。

そして、私が母の実家がある長崎県に住み始めたのは小学校3年生の夏休みからでした。見慣れない日本の教科書をランドセルにつめて、中国でのスクールバスから一転し徒歩での登校のスタートでした。日本の小学校にはすぐには馴染むことができず上海が恋しくて、「上海シック」になることもありました。例えば、家で日本語を話していたとはいえ、上海では国際学校に通っていたため国語の授業がとても難しく同級生に音読のイントネーションを「違うよ」と指摘されることがありました。しかし、ヴァイオリンとバレエを続けたことで新しい出会いもあり少しずつ環境に慣れていくことができました。そして中学二年の夏に長崎県佐世保市と友好都市である中国の廈門市へ「友好都市締結35周年記念」の市民訪問団として訪問しヴァイオリンを弾くこととなりました。廈門の学生との交流会にて中国語を教えてもらったり、折り紙を一緒に折ったり、久しぶりに懐かしい中国の景色や雰囲気を感じることができてとても嬉しかったです。その場ではみんな国籍を意識することはなく、音楽、歌、ダンスなどそれぞれが思い思いの交流を楽しんでいました。

私は多国籍の上海での生活を通して多様性を認めること楽しむことを学びました。偏見は「知らない」から生まれるということです。「知らない」から誤解が生まれたり、不安から誰かを傷つけるマイナスな考えをを持ってしまうのではないかと思います。

私は現在舞台に立つ活動をしながら、語学や文化の勉強を続けています。これからの活動を通して私の大切な二つのふるさとを少しでも繋ぐことができるように学び、成長してゆきたいです。


 

人民中国  2023年10月25日


 

 

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