母の故郷、私のルーツ
齋藤 優人
私は中国人の母と日本人の父の元に生まれました。父は早くに母のもとを去り、母は一人で私を育ててきました。慣れない土地で小さかった私の手を引いて、18まで育ててくれた母の姿は、自然と私に目指すべき人生の道筋を示してくれました。
私が初めて母のルーツに興味を持ったのは、小学校で家族インタビューの課題が出た時です。当時から母が友人たちの親御さんとは何か違っている事はなんとなく理解していたのですが、いざインタビューをすると自分が学校で習った事のない地名が幾つも出てきてひどく困惑したことを覚えています。私はそこで初めて母がこの日本の外で生まれて、日本で私を生み育てたという事を理解しました。友人宅へ遊びに行く事すらおっかなびっくりだった私には母がどれほどの覚悟をもって来日して子供を育てたのかとても推し量れません。
母がどのような思いで日本に来て、どれだけの思いをして私を育ててくれたのかを考えるようになったのは、だいぶ大きくなってからのことでした。母は故郷の事を多く語らない人でしたが、時折見せる疲れた横顔や、慣れない環境で育児をする事への不安を隠し切れない表情が、私に母の苦労を伝えました。学校では、友人たちとの違いを感じることも多く、「ハーフ君」と呼ばれて戸惑いを覚えたり、母が日本語で苦労する姿を見て自分まで肩身の狭い思いをした事もありました。この頃から自分が中国人の息子である事をどことなく意識し始めました。
中学生の頃、母が親兄弟と共に数週間ほど中国で過ごす事となり、私は一人で家を任されました。何十年ぶりかの故郷で羽を伸ばして欲しいと母を見送った次の日には観光している母家族の写真が届きました。そこに移っていた母の家族は、誰もが自然で温和な笑みを携えていました。母が自分の家族と再会する様子を見て、彼女が日本でどれほどの孤独を抱えながら生きてきたのか、初めて実感したのです。電話の向こうで母の家族が流暢に交わす会話をひとつも聞き取れず、ただ頷く事しかできなかった私は、日本で母が経験してきた「異国での孤立」をほんの少しだけ体感した気がしました。しかし同時にその時、意味は分からないまでも私を褒めてくれているであろう暖かな言葉の響きは、私の中で何か新しいものを芽生えさせました。今まで「違うもの」として見ていた母のルーツが、「自分の一部」として受け入れられるようになったのです。それまでの私は、日本と中国の狭間で自分の居場所を見つけることができず、どちらか一方を選ばなければならないような気がしていました。でも、この一通の電話を通して、私は自分がそのどちらにも属しているのだという事を初めて強く感じるようになりました。
高校生になった頃には、母の母国語である中国語を本格的に学び始めました。最初は発音も難しく、挫けそうになることもありましたが、母が根気強く教えてくれるおかげで少しずつ話せるようになりました。母と中国語で会話ができるようになると、彼女の若い頃の話や、家族への想いも聞けるようになり、母との絆がさらに深まっていきました。日本語で語る母とは違い、母国語で話すときの母の顔は、どこか誇らしげで、そして懐かしさがこみ上げているように見えました。
私が18歳を迎えたとき、母はこれまでの苦労や過去を振り返りながら、私に「自分のルーツを誇りに思いなさい」と言ってくれました。それは、母がずっと心の中で自分に言い聞かせてきた言葉なのかもしれません。そして、その言葉は私にとっても大切なメッセージとなりました。私はこれからも、日本と中国という二つの文化を背負いながら、自分の道を歩んでいこうと思います。母が私に教えてくれたように、どんなに困難な状況でも自分のルーツを大切にしながら、前に進んでいく覚悟を持って生きていきたいと思います。