イメージと現実
伊藤 優希
私は父の仕事の都合で、生まれて半年で中国へ渡った。それから幼稚園に上がるまで中国の大連に住んでいたらしいが、その頃の記憶は全く無く、特に自分から中国に関心を持つこともなかった。だから中国人に対しても、なんとなく声が大きくて早口で、少し怖そうという曖昧なイメージしか持っていなかった。
しかし、なんとなくのイメージや思い込みというのはときに大きな影響力を持つ。初めてそう感じたのは小学校高学年の頃だ。授業か雑談かはよく覚えていないが、話の流れで中国の話題になったとき、クラスの一部の人が中国人の悪口を言い始めた。それは、領土問題のことだったり、彼らがたまたま接した中国人の態度が悪かったことだったりしたが、それを総じて中国人全員を恨んだり嫌ったりするのはおかしいと思った。私はそれを聞いているうちに、なんとなくのイメージが共有されて事実のように扱われ、いつのまにか彼らの中に歪んだ中国人像を創り上げているように思えて、怖くなった。そして、このような思い込みやわかったふりは誰にでもあることであり、自分にも少なからずあてはまることだと思った。
私はその日、学校から帰ると、両親に中国での当時の生活について尋ねてみた。それまでは自分たちが中国に住んでいたことは聞かされていたが、詳しく話は聞いたことが無かった。まだ小さい兄と双子の私たちを外国で育てるのはさぞかし大変だったと思う。しかし、両親の答えは意外なものだった。確かに大変なこともたくさんあったが、中国人のベビーシッターが子供たちの面倒をよく見ていてくれたし、何より父の会社で働く中国人社員たちにかなり助けられたと言っていた。当時のアルバムを見せてもらったのだが、そこにはまだ幼い私たちと若い両親とともに、5、6人の中国人の姿が映っている写真が何枚もあった。聞けば、子供が小さく旅行が難しい両親を気遣って、彼らが頻繁に一緒に旅行の計画を立てて同行し、子供の世話や言語面でのサポートをしてくれたという。また、父は日中関係について他の中国人社員とよく語り合ったという。それは決して敵対的なものではなく、お互いが国同士の問題についてどう思っているのかを知ろうとしている感じだったらしい。私はこれらの話を聞いたとき、自分が中国人の人情や懐の深さなどについて本当に何も知らなかったのだと思った。また、自分が無知であることに気づかずにいることの恐ろしさを知った。無意識のうちに持つイメージはときに私たちの考え方や捉え方を縛り付けて視野を狭めてしまうのだ。
修学旅行などで学校外に出るとき、日本人学校の先生から幾度となく言われた言葉がある。「自分は日本人代表だと思いなさい。」という言葉だ。その時は少し大げさだと思っていたが、実際そうなのだ。多くの人が目の前にいる外国人の行動でその国のイメージを形作ったり、逆にその国のイメージや自国との関係からその国の人を捉えてしまったりしがちだ。それは仕方のないことなのかもしれないが、一人一人の考え方や行動は千差万別であり、国という括りではひとまとめになどできない。私は海外での生活を通してこのことを身に染みて感じた。
そして私は今、大学の第二外国語として中国語を学んでいる。発音が難しく、日々四苦八苦しているが、家や学校で中国の文化に触れる機会は大きく増えたと思う。まだまだ実力不足ではあるが、いつか自分の肌で中国を感じ、ありのままの中国を見てみたい。