盤上の対話

2025-11-17 15:07:00

松本悠吾

 

私は小学生の時に、近くの将棋道場に通っていたことがあった。そこでは午前に子供向けの将棋教室があって、午後から大人たちがやってきて指し始めるという具合であった。強い子供の多くは、将棋教室が終わっても午後まで将棋を指しており、私も雰囲気に慣れるにつれて、自然と遅くまで残るようになった。ある日、外も暗くなり始めてほとんどの人が帰ってしまったとき、席主の人が奥の部屋から見たことのない変な盤と駒を持ち出してきた。それが何なのか尋ねると、これはシャンチーだよと答えた。中国の将棋で、駒が丸いんだよとも言っていた。席主の人は将棋盤の上にその盤を置いて、残っていた大人と指し始めた。その日は残っているのが私だけで、相手も居ずやることがなくその対局を見ていた。終局後、彼らは駒の動きを簡単に説明してくれた。その時はそこまで興味もなかったので、残念ながら覚えることはできなかった。席主の人は、「シャンチーを指せる人は少ないからね、わざわざ来ているんだよ。」と少し悲しげに語っていた。色々な人とやりたいならシャンチーではなく将棋をやればいいのに、と私は密かに思っていた。その後、席主の担当が変わって、道場でシャンチーが指されているのを見ることはなくなった。

私がシャンチーに興味を持ったのは、中学校に入学してからである。はっきりとしたきっかけはなかったが、将棋以外のボードゲームを学びたいと思い、そのときこの記憶がよみがえり、シャンチーに挑戦してみようと思った。シャンチーは日本で指せる人が少ないため、仕方なく中国語のアプリをダウンロードした。最初は漢字を見てうんざりしていたのだが、一度ルールがわかってしまえばかなり面白く、私はシャンチーの虜となった。盤の中央を隔てる「河」や、将棋ではまず現れない動きをする「象」など、初めてのルールに最初は戸惑ったが、慣れてくると日本の将棋にはない独特の迫力があった。対局相手は当然中国の人ばかりであり、読めない漢字ばかりが並んでいた。しかし、相手が誰であるかに関係なく、駒を動かす時は一対一で向かい合っているという実感があり、次第に言葉の壁を忘れて楽しめるようになった。

シャンチーを学ぶ過程で、私は自然に中国語にも興味を持つようになった。指し方を詳しく知りたくて、中国人が解説している動画を探してみるようになったのだ。何を話しているのかは全く理解できなかったが、駒の動きだけでなんとなく内容を感じ取れる瞬間があり、そのことがとても嬉しかった。単語の意味を少しずつ調べていくうちに、気づけば中国語そのものに強い関心を抱くようになった。

将棋教室で初めて目にしたシャンチーの駒が、私の人生に新しい道を開く扉であったのだと今になって思う。あの時席主の人が盤を取り出さなかったら、私はきっとシャンチーに興味を持たなかっただろう。私にとってシャンチーは遊びであり、遠い中国と私を結ぶ見えない糸のような存在である。

現状、日本でシャンチーはほとんど指されていない。イベントがあっても、行われているのはほとんど東京であり、地方ではほとんど情報もなく、リアルで対局をする機会はほとんどない。これは非常に勿体ないことのように思う。ボードゲームとして楽しむという点でも、文化的交流の手段としても有用であるにもかかわらずである。異なる国を理解するには、その国の文化に触れるのが一番の近道だろう。文化は長い歴史で人々が積み重ね、作り上げた集大成である。シャンチー人口が増えれば、日本と中国が互いの考えや価値観を理解しあう機会も増え、日中交流のきっかけになるはずだ。

今、私は夢を持っている。いつか中国の公園で、地元の人と向かい合って盤を挟めることである。言葉が通じなくても、盤を介すことで心は通じ合うのである。現在、周囲でシャンチーを指せる人はいない。それでも私は、今日もシャンチーを指し続けている。

 

 

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