言語の「誠実さ」〜三国語が教えてくれたこと~

2025-11-17 15:32:00

山田友子

 

私が3カ国語日本語、英語、中国語と向き合う中で興味を惹かれるのは、言語によってのカラーだ。ネイティブである日本語を基点にすると、中国語の漢字は「親戚でありつつも他人」のような感覚。英語のアルファベットは「異世界の住人」のように感じる。特に同じ日中、アジア圏で主に使われる「漢字」に関しては親しくもあり、時に新たな顔を見せる姿である。

この対話が、ことばが紡がれてきた文化の多様性。その背景にある多くの歴史・社会・民族性から成り立つ過程を、私に、深く考えさせてくれた。

中国語学習で最初に直面したのは、見知った顔をした「知らない人」たちだった。例えば「娘」。日本語では大切な「むすめ」だが、中国語では「母親」を意味する。「勉強」は、日本語では「努力」や「学業」のイメージが強いが、中国語では「無理強いする」という僅かにネガティブな意味合いを持つ。最初は戸惑った、親しいはずの漢字が、国境を越えるとまるで別人の仮面を被る。それは一種の誠実さだと感じられた。それぞれの文化に迎合し、向き合い、育ってきた言語の誠実さである。そして新たな顔を日本人である私に見せてくれる、嘘偽りない誠実さである。

それぞれの価値観で意味を育ててきた結果なのだ。漢字は中国から日本へ伝来したが、海を渡った時点でそれぞれの土地で独自の人生を歩み始めたのである。

「愛人」という言葉はその最も良い例だろう。中国では「配偶者」特に「妻」を指す純粋で愛情のある言葉だ。しかし日本では、本来の配偶者以外の恋愛対象。いわゆる「不倫の相手」という意味が強く定着している。これは日本の社会情勢やメディア、大衆文化の影響が、言葉の意味を大きく変容させた一例と言える。言葉は植物かつ生き物である。社会という土壌によって育まれる味が変わるのだ。

 

一方「学校」「愛情」など、ほとんど同じ意味で通じる漢語も数多く存在する。これらは、近代化の過程で日本で作られた「和製漢語」が中国に逆輸入されたものだそうだ。この双方向性も、お互いの文化を尊重し合う点もまた、一種の誠実さを感じる。新旧の文化・概念が融合し合う時代に両国が同じ漢字というツールを使って知恵を絞り、互いに作用しあって新しいことばを創造した証である。

ここで、全く体系の異なる英語の存在は、これらの気づきをより鮮明にしてくれる。アルファベットという記号は、漢字が内包するイメージやとは全く無縁だ。しかし、「liberty」と「freedom」のように、日本語では同じ「自由」と訳されがちでも、本来のニュアンスは異なる言葉が数多く存在する。

どんな言語でも、一対一で完全に対応する意味など存在せず、その言葉が育まれた文化や文脈を理解しなければ、真の意味は見えてこない。

アジア圏内ですらこれほどまでの差異があるにも関わらず英語はもっと広いだなんて!改めて世界の多様性と豊かさに圧倒される。

違いは時に誤解や摩擦を生む。だがそれと同時に、お互いの文化の深層を理解するための最高のツールでもある。一つの漢字の意味の違いの裏側には数え切れない人生と情報が、積み重なっている。

三国語と向き合うことで学んだのは、ことばを学ぶとは、単なる記号や文法の習得ではなく、その背景にある何層もの歴史と文化、人々の思いにまで耳を傾ける行為だということ。

これからの世界との交流において、この違いを楽しみ、理解しようとする姿勢こそが最も重要だと私は信じている。それぞれが尊いものであり、それぞれから学ぶことがある。

ことばは想いを伝えるためのツールで、人と人とを結ぶ架け橋である。それは互いの文化の成り立ちに対する敬意と好奇心によって、違いに橋をかけられる。より美しいものになる。文化が誠実に根を広げている瞬間も私たちも5感を存分に使い、誠実になりたい。

 

 

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