五行の山に出し月かも
2025-11-17 16:04:00
鈴木猛敏
「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」
この歌を詠んだ阿倍仲麻呂は19歳で唐に渡り、玄宗皇帝に仕えた。30年が経ち、ようやく帰国を許され船出したが、途中で難破し、結局帰国を果たさぬまま生涯を終えた。この歌は、帰国を試みた際の送別の宴で詠まれたものである。異郷の地で月を仰ぎ、故郷を想う切なる心情がこめられている。百人一首に選ばれた有名なこの歌は、現代でも多くの日本人の心を動かし続けている。
ダナンの大学に言語社会科学の教員として赴任した私は、慣れない生活への憂いと教育活動への期待を抱きながら、この歌を思い出した。着任して間もない頃、同僚に誘われ五行山を訪れた。夏の日差しは容赦なく、油断すれば熱中症になりそうなほどであった。雨でも降ろうもんなら滑ってしまいそうな大理石の階段を登りながら、同僚が説明してくれた。ここは『西遊記』で孫悟空が三蔵法師と出会うまで500年もの間、幽閉されていた山だという。幼い頃に大好きだった物語の冒頭の舞台にいるということに私の心は踊り始めた。
その日の夜、同僚と海沿いの賑やかなレストランで夕食をとった。日中の暑さが嘘のように、潮風は柔らかく心地よかった。食事を終え、会話が途切れた時、ふと海に目をやると、穏やかな波間に揺れる満月の光は、静かに「大丈夫だ」と私に語りかけてくるようだった。
学生時代の私は、こんな夜が自分に訪れるとは想像もしていなかった。東京の大学に通っていた頃、ゼミが終われば友人たちと学食で夕食をとるのが日常だった。ある日、「ここ座ってもいいですか」と声をかけられた。中国から来た留学生だった。彼は少し緊張した様子で、トレーを抱えていた。私はすかさず「どうぞ!」と返した。その何気ない一瞬が、長く続く友情の始まりになった。同年代、正確には2歳ほど彼の方が年上であったが、一人で海外に来て勉強し、生活をしているということに尊敬していた。夏休みには彼の下宿先に招かれ、数名のゼミ仲間と皆で餃子を包んだ。私はなかなか不器用であったにも関わらず作業自体は早かったため、大変歪な形のものが量産されたのだが、「みんなで食べれば美味しいから大丈夫」と彼は笑いながら、私の粗相を許してくれた。
青春は、笑顔ばかりではない。文化の違いに戸惑うこともあった。まもなく秋になろうという頃、キャンプに行った。山の夜は涼しく、ようやく慣れてきたお酒を片手に話していた。酔っていたのもあるだろうが、私たちはなかなか激しい議論を展開することになった。あえてそうしたのかもしれないが、率直な意見を伝える彼の迫力に、私は圧倒された。しかし、会話を重ねる中で、そういった姿勢は相手を尊重するがゆえの真剣さから来るものだと理解することができた。この体験は、コミュニケーションにおいて表面的なやり取りではなく、その人がなぜそのように表現しているのかまで考える必要があるということ学ぶものとなった。今の私が研究分野としている言語社会科学の道に進む原体験の一つとなっている。夜空には三日月が輝いていた。
インターネットで人とも情報とも繋がれる現代だからこそ、画面越しの印象ではなく、実際に会い、語り、共に時間を過ごすことはこれまで以上に価値がある。私自身がそうであったように、ほんの小さな出会いはやがて、国を結ぶほどの力になり、大きく変化するきっかけとなる可能性がある。阿倍仲麻呂は帰国が叶わないことを嘆くより、異国の地でその発展のために尽力したし、孫悟空はやがて五行山から解き放たれ、仲間と旅に出た。私は教育や文化活動を通じて、日中の若者が互いを理解し合う場を広げていきたい。誤解や偏見という岩塊から日中両国が解き放たれ、共に未来への旅を歩み出すことを、あの頃と同じ月の下で願っている。
「異郷の地 まだ見ぬ友を 映す空 五行の山に 出でし月かも」
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