想像する力でつながる隣国

2025-11-17 16:40:00

米野楓奈

 

今年の夏、私は大学生訪中団の員として北京を訪れた。全国から集まった百名の大学生と共に、中国の大学生や現地関係者との交流を通して過ごした週間は、私にとって「隣国」としての中国を新たにつめ直す機会となった。

出発前、私の中にあった中国像は、報道やSNSを通じて得た断片的なイメージに左右されていた。急速な経済発展、中間の摩擦、情報統制といった葉が真っ先に浮かび、どこか「近くて遠い国」という印象を拭えなかった。しかし実際に現地にち、空気を吸い、同世代と語り合うことでえてきたのは、ニュースの行間には書かれない常の姿があり、そうした先観を静かに塗り替えていった。

特にに残っているのは、北京学での交流会での出来事である。世界各国の学が集い、平和や未来について語り合い、化を披露するイベントの最中に、思いがけない体感がまれた。とある国の学がペンライトを掲げてさな輪をつくり始めたのをきっかけに、本や中国を含む他国の学が次々と加わり、会場全体が光のきな輪に包まれていった。誰かの指葉があったわけではない。けれども、呼吸を合わせるように然と空間が共有されていった。その瞬間、国籍や化の違いを越えて互いを受けれるが場を満たしていると確かに感じた。

私は普段から「情報」と「社会」の関わりに関を持ち、名古屋市の若者評議会でメディアリテラシーの教材制作に携わっている。どのメディアを通し、どのような葉で伝えられるかによって、私たちが抱くイメージや判断はきく左右される。特に中国に関しては、偏った断的な情報だけが切り取られることも少なくない。そのため無意識のうちに「⼀⾯的な中国像」がつくられてしまう危うさを感じてきた。だからこそ今回、北京にを置き、々の暮らしや同世代の声に触れることにきな意味があった。

北京の街を歩き、肩を並べて事をし、常の話題を交わす中で、私は「中国にも私たちと変わらない常がある」という当たり前の事実を実感した。政治や国際関係の摩擦は確かに存在する。だが、その枠組みの中に埋もれがちな「⼀⼈ひとりの声」に⽿を澄ませることこそが、隣国と向き合う第歩ではないだろうか。

私は今回の経験を通して、想像する切さを感じた。分のた光景や⽿で聞いた葉を、帰国後に仲間や家族に伝えるとき、私が語る内容は新たな「イメージ」として相⼿に届く。その時にがけたいのはただ「たこと」を並べるだけでなく、相⼿場にって考える視点を添えることだ。完璧に理解することは難しくとも、「分がその環境にいたら」と想像してみること。その姿勢が、互いの距離を縮める出発点になると信じている。

訪中で出会った中国の学たちは、本のアニメや楽を話題にして然に距離を縮めてくれた。彼らにとって本は、政治や外交のニュースだけで語られる存在ではなく、化を通じて親しみを持てる国でもある。私もまた、彼らとの対話を通じて「中国」という葉の背後に、同じ時間をきる仲間の姿を重ねることができた。

これからの中関係は、時に厳しい現実に直することもあるだろう。しかし未来を担う若者同が直接つながり、語り合い、互いを想像するを育んでいければ、そこに新しい可能性がまれるはずだ。私に出来る事はきくないが、北京で得た学びを分の葉で発信し、さな光をつなげていくことならできる。

光の輪が広がったあの北京学での夜のように、国境を越えたつながりは、⼀⼈ひとりのさな動からまれていく。私はこれからも、隣国をつの「国」としてだけでなく、そこできる「」として想像し、向き合い続けたい。そうした姿勢こそが、未来を担う私たち若者に求められている役割だと、から感じている。

 

 

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