侵略軍から反戦の闘士へ 平和への信念を生涯貫いた小林寛澄さん
殷占堂=文・写真提供
日本の軍国主義による中国への侵略戦争の中で、特別な戦士たちがいた。かつて武器を手にした侵略者だったが、中国共産党軍(以下、八路軍)に感化されて目を覚まし、やがて反戦の闘士へと転じた。
その中の一人が小林寛澄さんだった。寺の住職の息子として生まれた小林さんは、戦争に駆り出され、中国の戦場に送られた。八路軍に捕らえられた後、侵略戦争の本質を見抜き自ら八路軍に入り、軍国主義と戦う戦士となった。戦後、小林さんは日本に帰国し、残りの人生を中日友好にささげ、平和への信念を生涯守り続け、2019年、99歳でこの世を去った。生前の小林さんと長年親交があった筆者が小林さんの半生をここにつづる。
中国人民抗日戦争の中期から後期にかけて、戦局の逆転につれ、日本侵略軍内部ではえん戦気分が広がった。日本兵捕虜の人数が増えていき、さらに自ら降伏してくる者も出てきた。八路軍では日本語に長けた敵軍工作部(対日本軍活動部のこと。以下、敵工部)の幹部が、捕虜に侵略戦争の本質を懇切丁寧に説明し、侵略軍による「殺し尽くし・焼き尽くし・奪い尽くす」(三光)政策で中国人民が被った甚大な被害を語り聞かせた。さらに、生活の中で彼らを友人として温かく接していた。次第に目を覚まし、自ら八路軍に加わり、平和を求める反戦の力となった日本人兵士が増えた。そうした変化をもたらした最大の要因は、中国共産党が定めた「捕虜優待政策」にある。

1937年10月25日、毛沢東主席はイギリス人記者バートラム氏との談話の中で次のように述べている。「われわれは依然として、捕虜になった日本人兵士や、やむを得ず戦っている下級将校に対し寛容をもって扱い、侮辱も責めもしない。両国人民の利益が一致していることを説明して釈放する。原隊への復帰を望まない者は、八路軍に仕えることもできる。将来、もし抗日の戦場に国際旅団が現れるならば、彼らはそこに入り、武器を取って日本帝国主義に対抗するだろう」
そうした人道的な取り組みに、日本人兵士は感動した。侵略軍が八路軍の捕虜を扱う際には、残虐な拷問、虐待、殺害が横行していた。一方、八路軍は日本人捕虜を友好的に扱った。八路軍の兵士たちはアワ飯を食べたが、日本兵にはできる限り白米を用意した。自分の部隊で罵倒されたり、理不尽な体罰を受けていたりすることも少なくない日本人兵士たちは、扱いの違いをまざまざと感じ、深い印象を受けた。
加えて、敵工部の日本語のできる幹部が、侵略戦争の本質と、中日両国の人民にもたらした苦しみを繰り返し説いた。一般労働者や農民、学生出身の日本兵はそうした中で覚醒し、八路軍に参加し、日本の軍国主義を打倒し、中国人民の抗日戦争を支援する中で特別な役割を果たした。
僧侶が侵略兵に
小林寛澄さんは、仏教・天台宗の僧侶の家に生まれた。40年、若い小林さんは強制的に徴兵された。短期間の軍事訓練を経て、小林さんは部隊に編入されて中国山東省の牟平県(現在の山東省煙台市牟平区)に上陸し、軽機関銃兵として戦場に投入された。41年6月、山岳地帯へ八路軍の掃討に出た際、部隊が包囲された。小林さんの弾薬手は自決し、小林さんも死を覚悟した。坂道に座り、機関銃を抱えて銃口を頭に向け、足の親指で引き金を引こうとしたところ、銃床が柔らかい砂地に沈みこんだため、銃口がわずかに上向きになった。弾丸がかすめて額が血だらけになったものの、命を落とさずに済んだ。もう一度自殺を試みようとしたとき、駆け付けてきた八路軍の兵士たちに取り押さえられた。衛生兵に応急処置を施され、担架に乗せられた。
道中、小林さんの頭の中には「天皇の兵士が捕虜になるのはこの上ない恥辱だ。自決しなければならない」という思いしかなかった。小さな橋を渡るとき、突然身を翻して川に飛び込んだ。護衛の八路軍兵士たちも急いで川に飛び込み、小林さんを救い上げた。そして、「殺しはしない。捕虜は大切に扱うんだ。優待、優待……」と日本語で必死に説明した。
八路軍の戦士に
八路軍の拠点に着くと、衛生兵から丁寧な傷の治療を受けた。また、八路軍の指揮官でさえアワ飯と野菜スープしか食べられないのに、小林さんには白米と豆腐、卵、肉と野菜の炒めものなどが用意された。
日本語のできる敵軍工作科(以下、敵工科)の幹部はさらに、侵略戦争の本質や中国人民の受けた苦しみを語り、侵略軍の「三光」政策で荒廃した村にまで案内した。「仏教の教えでは、慈悲の重要性と諸悪をしてはいけないことを唱えている。それなのに、どうして銃を手に取り、罪のない民衆を殺すのか? それは仏教の教えに反している……」という敵工科の幹部の言葉が、小林さんの心に響いた。

仏教の経典には漢字が多いため、漢文の書籍を多少読めた小林さんは、敵工科の幹部から中国語の書籍をもらった。もともと徴兵に不満を抱いていた小林さんは、八路軍の兵士たちと交流し、八路軍の行動を実際に目にして、彼らこそ人民のために戦う「仁義の軍隊」だと確信するようになり、やがて自ら志願して八路軍に入り、敵工科で宣伝活動を行うことになった。その後、山東省で設立された「日本工農学校」山東分校で反戦理論を体系的に学び、次第に反戦の戦士にまで成長した。のちに「魯中」や「浜海」地区の反戦同盟支部長を務め、さらに山東軍区政治部の舒同主任の紹介で中国共産党に入党した。
それ以来、自分により厳しくなり、反戦への情熱はさらに高まった。敵のトーチカの前で降伏を呼び掛ける演説を行ったり、日本軍の兵士に食べ物などが入った「慰問袋」を届けたり、電話で説得を試みるなど、命懸けで活動を展開した。特に、小林さんが毛筆で日本人兵士に書いた真心のこもった手紙は、多くの兵士たちの心を動かしたという。
魚心あれば水心
43年初夏、侵略軍は八路軍の根拠地に徹底的な掃討作戦を行った。それに対し、八路軍は柔軟な反「掃討」作戦で対抗し、一部の部隊を分散させて、傷病兵などを安全区域にある「堡塁戸」(抗日戦争に協力し、臨時の避難所などを八路軍に提供する村民の家)にかくまった。反戦同盟支部長(文官)だった小林さんも重点保護対象として、武装工作隊長の陳さんの家に預けられた。陳さん一家は、小林さんを家族のように、心を尽くして世話した。家業が豆腐作りの一家から、「毎朝、陳隊長が熱々の豆乳を持ってきてくれた。その甘く香ばしい味は今でも覚えている」と小林さんは振り返る。
陳隊長は小林さんのことを「日本の戦友」と呼んだ。陳隊長の子どもたちは、小林さんに中国語を教えたり、侵略軍の奇襲を警戒するために後山に見張りに行ったりした。また、陳隊長の妻は小麦粉の饅頭や烙餅(こねた小麦粉を薄く焼いたもの)など、条件が限られた中であれこれ工夫して小林さんに食事を用意する一方、自分たちは粗末なトウモロコシの饅頭を食べていた。
「自分の国を侵略し、多大な苦しみをもたらした日本人の私にもこれほど親切にしてくれた優しさは、一生忘れられない」と小林さんは語った。
やがて掃討作戦が激化し、小林さんは沂源県(山東省淄博市)の土門という小さな村に住む「堡塁戸」の李さんの家に移された。

李さんは、小林さんを村から500㍍離れた天然の洞窟に隠した。入り口が木々に覆われ、4平方㍍ほどの洞窟の中には麦わらが敷かれ、その上に寝具、小さな机と茶器、ランプがあった。
毎晩、李さんは人目を忍んで、当日の夕食と翌日の食事をまとめて送っていた。食事には、大餅(小麦粉をこねて薄く円盤状に伸ばし焼いたもの)や饅頭、油条(小麦粉をこねて棒状にした揚げパン)、野菜炒めなどがあった。時には白酒とつまみを持参し、二人で兄弟のように酒を飲みながら話した。
小林さんは勉強熱心で、洞窟でマルクス主義理論家の艾思奇作の『大衆哲学』を日本語に翻訳した。「新しく捕虜になった日本兵たちに読んでもらい、侵略戦争の本質を認識し、マルクス主義を理解してもらえるよう役に立ちたい」との思いからだったそうだ。
そんなある日の夜、明かりをつけて翻訳作業をしていると、外から李さんに「おい、光が漏れてるぞ!」と小声で注意された。慌てて入り口をふさいだ小林さんは、李さんが毎晩洞窟の周りで見回りしてくれていたことを知り、胸が熱くなった。洞窟で約20日間過ごした小林さんは魯中軍区政治部からの復帰命令を受けた。別れ際、李さんからどうしても部隊のところまで送りたいと言われたが、小林さんは感謝しながら断り、一人で10㌔余り歩いた。牧馬池村の入り口に着くとすぐ、魯中軍区政治部の周赤萍主任に出会った。「お疲れ様。もう寒くなったから衣替えは? 綿入れの服を手配するようすぐ後方勤務部に連絡する」と、周主任は小林さんの手を握って労った。
小林さんは筆者にこう語った。「中国には『滴水之恩、当以湧泉相報(一滴の水の恩にも湧き出る泉のように報いるべき)』という言葉があります。陳さんや李さんのような恩人に報いずにいられるでしょうか。生きているうちに彼ら、もしくはご家族に会いたいのです。でも、もう数十年前のことだから、村の名前も人の名前も、もしかしたら間違っているかも……どうすれば連絡が取れるのでしょうか」
2007年7月17日、筆者は『中国国防報』に「中国の恩人、今どこに」という文章を寄せ、小林寛澄さんが恩人を探している事情を取り上げた。
その文章の反響は大きく、山東省淄博市都市建設局档案館長の孫雁鳴さん(八路軍兵士の子孫)、淄博中心医院の武祥玉院長、「淄博晩報」記者の董振霞さんらの協力で、すぐに手掛かりが見つかった。筆者が北京から国際電話で連絡すると、小林さんは大変喜び、筆者に先に現地までの確認作業を頼み、もし情報が確かなら、涼しくなってから一緒に行こうと言った。
8月2日、筆者は汽車で淄博到着後、真っすぐ土門鎮劉家洞村に向かい、60年前に小林さんをかくまった李さんの家を見つけた。李さんの本名が「李義勝」ということもようやく分かった。残念なことに、李さんは13年前に亡くなっていた。しかし82歳(当時)の妻は健在で、こんな話を聞かせてくれた。「そのとき夫は私にも何も言わず、おいしいものを作ってとだけ頼むと、料理をかごの中に入れて出掛けるので、私も何も聞きませんでした。それが1カ月ほど続いたある日、もう作らなくていい、彼はもう去ったとだけ言われました」

話をしているうちに李さんの子どもたちが帰宅したので、彼らの案内で山の斜面にあるあの古い洞窟を見つけた。
李さん宅を辞し、武院長の案内で山東省臨沂市高荘鎮に住む陳隊長の娘・陳玉蘭さんに会った。「抗日戦争の頃はまだ10歳ほどでした。よくわが家に泊まる人がいて、その中には確かに日本人がいました。優しそうで、中国語を教えたこともあります。残念ながら父はとっくに亡くなりました」と陳玉蘭さんは語った。
同年10月、筆者は小林さんとともに山東省に赴き、恩人の家族を訪ねた。その模様は山東テレビと「淄博晩報」にシリーズで報道された。小林さんが李義勝さんの墓前にひざまずき、頭を地面につけて感謝と追悼の意を伝えるシーンは本当に感動的だった。
戦友との絆
同じ日本人八路軍の宮川英男さんは、小林さんが反戦同盟活動を展開したときの戦友だ。1945年6月、宮川さんは任務中に日本軍に発見され犠牲になった。前述した淄博市都市建設局档案館長である孫雁鳴さんの父は、隊員を率いて宮川さんの遺体を取り戻し、追悼会を開き、記念碑を建てて葬った。のちに遺骨は済南烈士陵園に移された。小林さんは訪中するたびに必ず戦友である宮川さんの墓を訪れ、花束をささげた。筆者とともに山東省を訪れ恩人を探す旅に出た際にも、雨の中で墓参りをし、富士山近くで拾った石を供えた。また、小林さんは宮川さんが犠牲になった実際の経緯を宮川さんの家族に教えようと、日本で探し続けた。
当時、日本人八路軍のほとんどが中国で仮名を使っていたため、家族を探すのは極めて困難だったが、約1年間あちこちで調べ、尋ねた末に、ようやく宮川さんの姉を見つけた。東京で宮川さんの姉や親族を招いて会食し、宮川さんの事績を語り、元日本人八路軍兵士たちが帰国した後に創設した「椰子の実会」(八路軍・新四軍会)会長として、自ら工面した慰問金を手渡した。
また、小林さんは北京を訪問するたびに、必ず八宝山革命公墓に赴き、以前の上司の蕭華氏、舒同氏、羅栄桓氏らの墓に花を手向けていた。抗日戦争時に129師団敵工科科長を務めた劉国霖将軍とも親しく、北京に来た際には必ず、鳥の巣(北京国家体育場)の近くにある劉将軍の家を訪ねていた。二人はいつも固く抱擁し、話を弾ませた。

2008年の晩秋、筆者は小林さんを四川省大邑県の建川博物館へ案内したあと成都市へ向かい、抗日戦争中に小林さんとともに山東省で戦った戦友の郄晋武さんを見舞った。まさに一生忘れられない戦友の絆がそこにあった。
日中友好を一生の使命に
小林さんは帰国後も長い間、日本の公安警察の監視下に置かれていたが、日中友好のための取り組みを続けていた。「椰子の実会」の3代目会長の任期中には、高齢を理由にせずパソコンの使い方を覚えて演説原稿を書き、平和を呼び掛け、戦争に反対し、日中友好の事業に身を投じた。毎年の新年や8月1日の中国建軍節には、必ず会員を集めて座談会を開き、これまでの経験や成果、不足をまとめ、今後の活動計画を作っていた。筆者も「友好会員」として参加し、撮影を担当した。
08年5月12日に四川省で汶川大地震が発生すると、小林さんはその翌日に緊急募金活動を行った。会員たちは年金生活をしていたが、みんな積極的に寄付した。地震発生から4日後、小林さんは電車を何度も乗り換えて中国大使館に赴き、募金を手渡した。小泉純一郎元首相が在任中に靖国神社を数回にわたって参拝したときには抗議の手紙を送った。また、12年3月に中国南京市代表団が訪日し、当時の河村たかし・名古屋市長が歓迎会で「南京大虐殺はなかったのではないか」という史実を歪める発言をしたというテレビニュースを見て激怒し、河村市長に「猛省勧告書」と題した手紙を送り、自らの実経験と日本侵略軍が中国で実施した「三光」政策の事実を語り、過ちを認め、中国政府と人民に謝罪するよう求めた。

最期を迎えるとき、小林さんは紙に「中国」「内蒙古」「北京」などの文字を書き残した。
筆者は小林さんと知り合ってからの十数年間、複数回にわたって氏に取材を行い、ドキュメンタリーを撮影し、訪中の案内をした。心を通わせる友人だったと言える。
中国のイベントに参加しに来たときは、小林さんは経費節約のため、筆者の家に泊まり食事した。小林さんは顔を洗うとき、いつも水を細く出していた。その理由を聞くと、「節約、節約」と答えた。昼間は外に出て友人と会ったり、軍事博物館や天安門広場を見学したりして、夜に家に帰ると、筆者の妻が小林さんにお湯を用意して足を浸けさせたり、小林さんの足の爪を切ったりしていた。小林さんは非常に感動し、「自分の娘よりも優しくしてくれた」と言った。
人生は短く、光陰は矢のごとし。80年の歳月の中で日本人の元八路軍兵士たちは次々にこの世を去った。だが彼らの精神はいつまでも私たちの心の中に生きていくだろう。
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