忘れ難き清水さん

2020-10-21 10:04:27

尹建平=文

 

 どうしてか分からないが、ある人の姿がいつも私のまぶたに浮かびあがってくる。黒い細身の背広に引き締まった体躯を包み、黒い頭巾をかぶって大きな黒縁の眼鏡をかけ、眼鏡の後ろにはらんらんと輝く瞳がある。今年、新型コロナウイルスが始まってから今に至るまでの9カ月間、しばしば目を閉じるとこのよく知る人の姿が私のまぶたに浮かびあがった。この人こそ松山バレエ団の代表で、日本の著名なバレエ振付家、バレエダンサーの清水哲太郎であり、私は親しみを込めて彼を「小清水」と呼んでいる。松山バレエ団の全団員を率い、中国・武漢でコロナが始まった時から、中国の国歌『義勇軍行進曲』を歌い、これによって武漢と中国を励ましてくれた人こそ彼である。彼の言葉を借りるならば、「人類は前進する道の上で永遠に愛と平和、平和と健康を追求するべきで、自らが光となり、たいまつとなって、あらゆる暗闇を照らそう。われわれは中国が必ず勝利を勝ち取ることができると信じている」。

 

 松山バレエ団が跪いて『義勇軍行進曲』を歌う動画は、一夜にして4億回余りの再生数を得て、私もすぐに紙とペンを取り出し、その感慨を書き留めた。

庚子华夏新冠入侵  庚子(2020年)華夏(中国)に新型コロナ侵入し

东瀛扶桑惊触舞魂  東海扶桑(日本)の舞、魂を揺さぶる

高歌义勇军进行曲  高らかに歌う義勇行進曲

松山异域风雨同心  松山域を異にすれども風雨に心同じくす

 清水哲太郎は松山バレエ団の二代目継承者で、彼の夫人は森下洋子であり、父清水正夫と母の松山樹子からこのバレエ団を受け継ぎ、2008年以降、まさにその時から、私は中国国際文化交流センターの理事として、清水哲太郎と十年の長きにわたって真実の堅い友情を培ってきた。

 

 1975年、19歳だった私は、中国北京芸術団に付き従って日本を訪問し、清水さんの父である松山バレエ団創始者で団長の清水正夫氏の心のこもったもてなしを受け、この時から松山バレエ団の親子二代と45年にわたる深い友誼を培ってきた。

 20111013日、中日国交正常化40周年を記念するため、松山バレエ団は新版バレエ劇『白毛女』を携え、13回目の訪中公演を行った。その期間中、清水さんは全団を率い、北京天橋劇場でわざわざ私のために対面会を開いてくれた。

 2012910日、中国国際文化交流センターで行われた「日本松山バレエ団『白毛女』中国公演記念切手発行式典」が北京で開かれた。私は発起人として、清水さんと松山バレエ団理事長である森下洋子さんと深い交流を行った。

 2013525日、清水さんは松山バレエ団を代表し、私に彼の父である清水正夫氏の遺品を記念品として贈ってくれた。その年、私は松山バレエ団のために二胡音詩『ジャスミンは香り、桜の花は艶やか』を創作して清水さんの認可と称賛を受けた。

 2014615日、私は北京で清水さん率いる松山バレエ団芸術家の訪中を歓迎する宴を設けた。

 20151023日、私は中国国際文化交流センターを代表して隊を率いて訪日し、『白毛女』東京初演60周年記念イベントに参加した。その間、清水さんと松山バレエ団はわれわれを大いにもてなしてくれ、私をバレエ団の海外理事に招聘してくれた。この年、私はまた松山バレエ団のために二胡交響変奏曲『白毛女』を創作し、清水さんはこの曲に基づいて『白毛女随想』を創作してくれた。

 

 2016928日、私は国慶節のイベントに参加するために訪中した清水さんと松山バレエ団を歓迎する宴を開き、2017年にこのバレエ団の15回目の訪中を実現し、新編バレエ劇『白毛女』を上演してくれるよう正式に要請した。

 2017516日、私は中国国際文化交流センターを代表して、中日両国の芸術家の交流パーティを開催し、訪中公演にやってきた清水さんと松山バレエ団の全員を招待した。

 2018624日、私は中国芸術家代表団を率いて日本を訪問し、「松山バレエ団成立70周年記念」の一連のイベントに参加し、清水さんは代表団を手厚くもてなしてくれた。わずか7日の間に、東京において、清水さん率いるバレエ団とわれわれは、共に中国国家『義勇軍行進曲』を三回歌い、中国の芸術家と松山バレエ団の友誼と感情は全く新たな次元にまで高まった。

 20181025日、私は中国国際文化交流センターを代表して青島で宴席を設け、松山バレエ団の訪中『白毛女』上演60周年を記念し、唐国強らの著名芸術家がそのパーティに参加した。

 

 2019615日夜、私は中国国際文化交流センターを代表して北京でパーティを開き、17回目の訪中となる清水さんと松山バレエ団の一行を歓迎した。

 2020年のコロナ期間中、私は「私と最も中国を愛する日本人」と「私の心の中の森下洋子」という文章を書き、清水さんの父である清水正夫氏と私にとってのバレエの女神である清水さんの夫人、森下洋子さんを称賛し、この文章はどちらも日本語に訳され、人民中国公式サイトで発表されて、好評を博した。

 こうした追憶は、私にいっそう大切にする必要があるとずっと注意を促しているように思える。清水さんはいつも松山バレエ団を「東京の延安」と喩えるが、松山バレエ団に足を踏み入れた人は、ここのすべてが中国を愛し、親しむ力に溢れているのを目にするだろう。中国の啓発の言葉や名言が壁の上に貼られ、毛主席や周総理の写真が高々と掲げられている。舞踏もバレエも素晴らしいもので、世界のすべての素晴らしいものは、民族のものであるのみならず全人類に属するものであり、清水さんと松山バレエ団のメンバー全員に、彼らの芸術に対する完全な追求と無限の敬愛、彼らが放つ熱い情熱を見て取ることができ、私は清水さんのような日本の友人を持っていることを誇りに思う。

 

 一つの団体には魂が必要とされ、松山バレエ団の魂とは、まさに清水正夫と清水哲太郎親子である。清水正夫さんは生前百回余りも訪中し、中国の数代の最高指導者はすべて彼に会ったことがあり、2008年に中国・四川で大地震が起きた時には、彼は重病を患いながらも松山バレエ団を率いて日本の中国大使館にやって来て、自ら団員の寄付金を崔天凱中国大使に手渡し、その一カ月後、清水正夫氏はこの世を去ったが、当時の胡錦涛中国国家主席が弔電を送り、中国政府と中国人民がこの中国を最も愛し、一生を中日友好事業に捧げた代表的人物である清水正夫氏への高い評価を示したのである。

 

 松山バレエ団の二代目トップとして、清水さんはさらに芸術家の情熱と理想主義を兼ねそなえた典型的な人物であり、彼は毎日欠かさずに勉強し、ホメーロスの叙事詩と中国の四書五経を愛読し、私と彼の交際の中でも「玉琢かざれば器を成さず、人学ばざれば道を知らず」というような語句をすらすらと口にする。清水さんはいつも「数千年の間、中国の文明は日本に深く影響を与え、中国の深遠で輝かしい文化は日本文化に極めて大きな滋養を与え、それに感謝の気持ちを持つべきだ。特に抗日戦争期の歴史に彼ははっきりとした認識をもっていて、彼は中国の国歌誕生が抗戦時代であることを良く知っていて、そのために彼は新編バレエ劇『白毛女』の最後の一幕で、全員に高らかに『義勇行進曲』を歌わせ、中国人民に対する感謝と謝罪を表現している。

 

 「武漢頑張れ、中国頑張れ!」という声を動画の中に聞き、清水さんと彼の団員の悲痛な叫び、そして清水さんの嗚咽によって声をとぎらせる様子を見ると感動を覚える。コロナ期間中、松山バレエ団は積極的に中国が必要としているさまざまな物資を集め、日本のあらゆる商店のマスクの在庫が空になった状況のもとでも、彼らはさまざまなルートを通じて一万枚余りの医療用マスク、消毒液、手袋を集め、清水さん自ら団を率いて集めた物資を日本の中国大使館に届けて、武漢の人々へ寄付した。

 この時、2008年の四川大震災の寄付の情景がふたたび私の脳裏に浮かんだ。清水さんが今日行っているすべては、彼の父親と全く同じで、私はこの親子が率いる松山バレエ団は、中日の両国人民の代々にわたる友好を願い、人類平和と幸福が常にあることを祈る心情と信念を一貫して持ち続けていることに、またもや心の中で深い感慨を覚えるのである。

 

                      人民中国インターネット版

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