どんな状況でも平和主義を貫いた中国共産党の100年

2021-09-01 16:16:33

文=王小燕 写真提供=石田隆至

1950年代初め、新中国は撫順や太原の戦犯管理所に収容された1100人余りの日本人戦犯を対象に、約6年にわたって教育改造や裁判を行った。その結果、ほとんどの人が自らの加害責任を認識し、深く反省した。帰国後は「中国帰還者連絡会」を結成し、反戦平和・日中友好をライフワークとして晩年まで活動を続けた。

石田隆至氏は大学院生だった2000年頃から、研究仲間だった中国人留学生とともに新中国から帰国した元戦犯に聞き取り調査を行い、その後、この分野で20年近く調査、研究を続けてきた。加害者だった日本人戦犯に対する新中国の向き合い方から見えるものは何か。北京を訪れた石田氏を取材した。

 

◆「敵」の後半生を変質させた平和的アプローチこそ今の世界で不可欠なもの

 

――石田さんが、新中国による日本人戦犯裁判の研究を始めたきっかけは?

私は、以前はインドの非暴力主義に関心を持っていました。その流れで、脱植民地主義、平和主義を掲げて、アジア・アフリカ会議を共に主導した新中国の平和実現へのアプローチに興味を覚えました。

 次に、山邉悠喜子さんとの出会いです。山邉さんは日本が敗戦した後に、東北民主聯軍(後の中国人民解放軍)の日本籍衛生兵として8年間中国で活動した人です。その経験に基づいた中国観、中国共産党認識、戦争責任の捉え方などは、日本社会で一般的に耳にするものとは大きく違っていました。被害者がどう感じているかを何より大事にして考えるという発想に、新鮮な感触を受けました。

さらに、新中国で日本人戦犯に接した管理教育担当者の姿勢も魅力的でした。膨大な残虐行為に手を染めながらも「聖戦」だと信じて疑わなかった1100人あまりの日本人戦犯が、帰国後に平和の担い手となるほど大きな変貌を遂げました。そうした変化を生み出した中国共産党やその思想を知りたくなったのがきっかけです。

 

山邉悠喜子さん

――戦後、世界各地で行われた戦犯裁判と比べて、新中国による戦犯裁判の特徴は?

東京裁判など先行の戦犯裁判では、犯罪事実を立証した上で、死刑や終身刑などを科すことで終結させました。それに比べて、新中国では、戦犯の認識が内部から変わるのを6年もかけて待ち続けたのです。その間、加害の事実を曖昧にする態度には厳しく、逆に罪に向き合おうとして苦悶している戦犯には寄り添う――そういった柔軟で人間味のある接し方が見られました。また、管理教育担当者自身が学習や自己批判を通じて自己教育を続けた結果、こうした対応ができるようになったことも興味深い点です。その結果、最終的に自らの罪を全面的に認めた「鬼子」は「鬼子」でなくなり、戦犯と管理教育担当者らとは敵と味方という関係でもなくなっていきました。帰国から30 年近く後の 1984 年に、数百人の帰国戦犯が8人の管理所元職員を「再生の恩師」として日本に招待し、歓迎したことにそれが象徴されています。

――石田さんは日本国各地を回り、50人あまりの元戦犯や家族、関係者に聞き取り調査をしてきたようですが、調査に込めた思いは?

私が調査を始めた時には、皆さんは帰国して 50 年以上経っていたのですが、解放軍にいた山邊さんたちと同じように、その認識や経験、人柄に触れるだけでも学ぶことが多く、私にとっては得難い機会でした。認罪経験はもちろん、帰国後に「中共帰り」と言われて苦労を重ねても前に進み続けた奮闘を知って、日本社会についての私の理解の凡庸さを思い知らされました。

 「敵」の後半生をも決定的に変質させてしまうほどの、平和主義のインパクトとは何だったのか。それは、「洗脳」や取引、奇跡といった手垢の付いた言葉ではとても説明できない現実でした。それをどう捉え、意義付けるかは、紛争や対立が絶えない今の世界でこそ不可欠だと思いながら取り組んでいます。

 

◆平和主義の貫徹こそが中国共産党の歩んだ百年

  

――歴史学者として、中国共産党が歩んできた百年をどのようなキーワードで総括しますか。

 それは、「平和」だと思います。中国はこの100年間の大部分を、日本を含めた欧米列強に侵略、包囲されてきました。そのなかで中国共産党が採用したのは、パワー・ポリティクスの論理ではなく、「持久戦」によって、「異なる他者」のあり方を内部から変化させ、敵対関係を共生関係へと再編させていこうとするアプローチでした。

 1950年代の日本人戦犯裁判がその典型で、検察・司法関係者の多くはその膨大かつ凶悪な罪行に鑑み、死刑や終身刑などの極刑を科すべきだと主張していました。しかし、中国共産党と政府は、罪行の甚大さを踏まえれば、極刑でもそれに見合うものではないこと、また罪を認めた戦犯に極刑を科すことは、その家族である日本人民に苦難を与えることになると考えました。その結果、認罪した戦犯が日本社会で反戦平和の担い手となることに期待し、有罪だが罰さないという独自の「開かれた裁き(起訴免除)」を科しました。もちろん、中国に帰国した戦犯が期待通りになるかは何の保証も強制力もなく、平和主義の信念だけに裏打ちされた決定でした。実際には、彼らの多くが後半生を平和建設に捧げたことは、戦後和解に何が必要かを示唆していると思います。

――この平和的アプローチがその後の中国共産党の姿勢にも貫かれたものだったとみていますか。

 ずっと生かされ続けていたと私は思います。1972 年の国交正常化交渉で、中国が戦争賠償を放棄したこともその一つの例でした。日本から賠償を請求することは、決して正義に悖るものではありませんでした。しかし、賠償の苦しみを知る中国として、同じ苦しみを日本の人民に負わせられないという平和主義、国際主義の信念に貫かれた決定を下しました。

 80 年代には教科書問題や靖国参拝問題などが起き、国交回復時の戦争責任とその反省の表明が早くも反故にされました。ただ、中国政府は日本側の再度の反省を受け入れ、基本的には友好関係を優先する対応を取り続けました。

 90 年代に入り、日本軍が中国東北部などに遺棄した毒ガス弾が、開発が進む中国で相次いで発見された時には、少なくとも40万発以上もある毒ガス弾を、リスクを承知で国内処理することに応じました。処理作業は現在も続いています。

2000 年代以降、首相の靖国参拝や領土問題などで関係が悪化する事態が続いていますが、それでもなお、中国は、日本が歴史認識を正し、戦争責任に基づく政策を展開することに期待して対応する、という従来の方針が貫かれています。

このように振り返ると、報復や制裁、反撃といった力によるアプローチを中国側が一切採らず、過ちの反省を再三にわたって明確化することで、関係の修復を求める平和的アプローチが続いていることが確認できます。状況に左右されず徹底して平和主義を貫くことこそ、中国共産党の 100 年の歴史と言えます。

――中国で暮らしている中で、実感した中国共産党の姿は?

 職場や地域社会、ボランティア活動等で中国の人々と接する中で見えてきたのですが、市民にとって共産党は日々の暮らしをより良きものにするという意味で、身近な存在のように見えます。貧困地域や農山村への生活・教育・技術支援、一人暮らしの高齢者や病傷者の慰問などの社会支援活動に、学生を含めた若い党員も活躍しています。新型コロナウィルスの発生の際にも、政府や党幹部からいち早く学習を重ね、専門家の知見を信頼して重視することで、わずか数カ月で抑え込みに成功しました。喜怒哀楽に満ちた普通の日常生活を送る多くの学生、青年、成人にとって、社会的な自己実現の一つの場として共産党が存在しています。社会や経済の発展、平和な世界を求める人々にとって、それを推し進めてきた党と共にあることは、中国では特別なことではなく、自然な選択なのだろうと感じています。

 

【プロフィール】

1971年大阪生まれ。明治学院大学国際平和研究所研究員。2020 年秋から上海交通大学人文学院副研究員。

 

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