中日の相互信頼の「ジェネレーションの崖」をいかに越えるか

2020-02-21 12:25:47

 

日中協会理事長の白西紳一郎氏が今年10月に死去したことは、多くの人を残念がらせた。両国関係はここ数年というもの、困難に陥ってきた。だがいかなる場合でも、白西氏は現代中国の揺るぎない理解者であり続けた。中国と日本が今、大いに必要としているのは、二つの文化の橋渡しをする白西氏のような人物だ。我々は今日、さらに未来にわたって、白西氏やその他の「井戸を掘った人」を真剣に理解し、継承していかなければならない。環球時報が伝えた。

中日国交正常化の前には、友好団体が中日両国を結びつけた。日中友好運動は、党派を超え、イデオロギーを超えた国民運動となった。だからこそこの運動は、日本社会に長期にわたって根付くことができた。あの時代には、日本の多くの民衆が素朴に、「日中は再び戦ってはならない」という信念を抱いていた。それこそがこの運動を推進した最小限綱領であり、両国と国際社会にとっては神聖と言える綱領となった。

今日、中国と日本はいずれも、1950年代のようなカリスマ的な民間運動のリーダーを欠いている。あの時代には、東京と北京を往復するにも数日を要した。だが彼ら民間のリーダーらは、幾多の苦労も顧みず、両国の友好の橋渡しをした。その時代を経て、中日間には1972年以降、4つの政治文書が調印された。だがこれらの制度をもってしても両国関係の悪化を止めることができないのはなぜなのか。「人能弘道、非道弘人」(人が道をひろめるのであり、道が人をひろめるのではない)という昔の言葉がある。我々は、紙の上のものにだけ頼っていてはならず、生き生きとした内容をそれに注ぎ込まなければならない。

中日の相互理解は、情熱をもって使命を遂行する人によってこそ促される。1980年代には、3000人の日本の若者が中国を訪れた。それが残したすばらしい感動は今でも日本社会に生き続けている。彼らの受け入れを担当した中国側の人員もその後、各自の分野で中日交流に貢献した。30年余り前のあの感動を今、どうすれば取り戻すことができるのか。熱意のある若い世代を中日友好のために獲得するにはどうすればよいのか。

1990年代以降、中日間の経済関係は急速に発展したが、「井戸を掘った」人々は次々にこの世を去り、中日間の相互信頼は「ジェネレーションの崖」に直面している。

中国と日本は近代国家建設の過程において、それぞれ異なる歴史的な情念を形成し、それは現在にいたるまで各自の外交政策に影響を与えている。中国を相手とした日本の「日清戦争(甲午戦争)」は、歴史上初めて、中国を上回るポジションと優越感とを確立し、その後の日本国家の統合のための近代化資源となった。こうした資源は現在にいたるまで、今日の日本の対中政策や社会心理に、ある時は公然と、ある時は隠れた形で影響を与えている。中国も同様、外部の脅威に対する民族の一致団結を抗日戦争の時期に実現し、この民族の成功体験を国家建設の過程に融合することに成功した。

本来であれば、このような歴史的な情念は、1950年代に、強大な国民運動と先見を備えた政治家の推進を通じてコントロールされたはずだった。だがここ数十年間で中国が歴史的な大国の地位を回復し、日本経済が長期的に停滞し、国際情勢が変化したことなどを背景として、双方の交流とコントロールは断裂を余儀なくされた。中日両国は、領土や歴史認識によってもたらされた対立を完全になくすことはできないかもしれないが、交流を通じて、「大同」を求めながら、「大異」は残し、対立をコントロールすることはできるはずだ。

だが現在、日本の若い世代は、中国に対する関心を欠いている。冷戦後の教育は、日本の若い世代の中国観に深刻な影響を与えた。日本の知識界は新たなパラダイムに基づいて中国を解釈している。両国のメディア業界人の多くは1990年代に教育を受けており、それまでの世代とは大きく異なる。我々は、お互いのこうした認識の溝を軽視してはならない。

今日の中日交流は、民間が政府の先を歩んでいる。中国からは大量の一般市民が日本を訪れている。彼らは観察者であると同時に交流者であり、風景を眺めるだけでなく、体験を渇望し、交流を求めている。交流は双方向のものであるはずだ。観光と中日理解の促進とをいかに結びつけるべきか。なかなか伸びない日本人観光客の中国訪問をいかに促進するかも、双方の共通の課題だろう。

二つの国家の対立の背後には、民族主義の要素もある。民族主義を消滅させることはできないが、その存在を認めることを前提として、そのネガティブな影響を超えることはできる。中国は1950年代、政治的な観点を問わず、多くの日本人を中国に招いた。このような交流の遺産は継承に値する。交流のルートを欠いていた時代、両国はいくつかの交流機構を設立した。その新たな位置付けを見出すため、これらの機構は今、摸索を続けている。多くの若者をこれに加わらせてこそ、青春の力をいつまでも保つことができる。

我々が身を置く国際社会の主体は依然として国民国家である。国民国家の枠組みの下では、知識体系は国家の知識となり、知識人は国家に属する知識人となる。国際政治学者は往々にしてまず民族主義者となる。今日の国際政治の研究において、我々は、「国家の利益」や「国民の利益」といかに向き合うべきか。

両国関係が険悪な時期にも、中国と日本の環境分野の研究者の交流は比較的スムーズであるということは知られている。それは双方が共通の目標を持っているからだ。私の知っている例では、日本のある木琴学習団体は、中国の木琴学習団体と年間を通じて交流を保っている。

我々はなんとしても、遠のきつつある理想を救い出さなければならない。我々の世代が老いても、次の世代がある。中日両国の政府は青少年の交流を非常に重視し、交流のために特別資金を割り当てている。このような「青少年交流」はしばしば、民間機構に委託されている。若者の交流をただの「プロジェクト」から恒久的な民間交流制度へといかに転じるべきか。このような交流を高校に任せ、一種の修学制度を作ることはできないか。

歴史を振り返ると、中国古代の「士」は、普遍的な「共同知」に基づいて問題を観察し、分析していた。東方の世界において、人々の知識の枠組みは共通している。国家の利益の衝突に関わる際には、人々は、普遍的な原則と人類の共同利益に基づいて目標を打ち出し、解决案を制定することができる。知識人は祖国を持つが、真理に基づく彼らの行動に国境はないからだ。

ここ数年、両国政府の関係は停滞し、民間交流も影響を受けた。もしも両国の民間人や知識人が国境を超え、数々の安定した交流のルートを構築し、さらにはさまざまな異なる専門分野の「市民共同体」や「知識共同体」を構築することができれば、このような国境を超えた「市民共同体」や「知識共同体」は、両国関係を安定させる碇(いかり)となると考えることはできないだろうか。中日両国は「戦略的相互不信」を超えなければならない。新たな歴史の時期において、中日両国は、あふれる熱意によって相互理解のプロセスを推進する新たなリーダーを必要とし、さまざまな「市民共同体」と「知識共同体」を構築することを必要としている。

ずいぶん昔の話になるが、当時早稲田大学の教授だった依田憙家氏が、「日中友好大学」の設立を提案し、多くの賛同を得た。私が周囲の日本人教授にこの構想を話しても、熱のこもった反応が得られる。来年は中日平和友好条約締結40周年にあたる。この条約が締結されてから、2世代近くの人々が成長してきた。我々は今後も、両国間に平和がいつまでも維持されるようにしなければならず、そのためには人才が不可欠となる。このため両国は、中国と日本のために、またアジアのために、「アジア平和大学」を作ることができるのではないだろうか。(文:劉迪、日本杏林大学大学院教授)(編集MA

 

 

「人民網日本語版」201812

 

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