改革開放が生んだ4大企業 安徽省蕪湖市の発展物語

2020-02-21 12:23:12

 
王漢平=文

江のほとりにある蕪湖市の新しい姿。蕪湖市は1985年に高知市と友好都市関係を結んだ


 蕪湖市は、安徽省の東南部に位置する、同省で第2の大都市だ。 

 長江は数千㌔の道のりを勢いよく東に向けて安徽省まで流れてくるが、蕪湖で北に向きを変える。唐代の詩人・李白は船に乗っていた時、この地で『望天門山』という詩を詠み、「山を断ち切るようにその間を流れる川は、東から北に向きを変える」と壮大な景色を生き生きと表現した。  紀元前2世紀の秦代末期に起こった楚漢の戦いで、西楚の覇王項羽は漢王劉邦との政権争いに敗れ、江東(故郷)の人たちに合わせる顔がないと川を渡らなかった。「江東」とは、蕪湖より東の長江以南の地方を指し、蕪湖は「江東名邑(江東の有名都市)」と称えられている。 

 長江のおかげで、蕪湖は近代中国における四大コメ生産都市の一つとなり、現在では長江水運の5番目に大きい港となっている。今年6月、中国社会科学院が発表した「中国都市競争力調査」で蕪湖市は「この40年間で最も成功した中国40都市」のランキングに名を連ねた。中国の280もの大中規模都市の中で、蕪湖の規模はそれほど大きくはないが、「改革開放の有名都市」としてその名を轟かせている。過去40年間、蕪湖は中国改革開放の歴史上、大きな影響力を持った人や企業を輩出し、彼らは起業と革新の物語を生み出し、蕪湖の発展を推し進めてきた。 

 
蕪湖の位置を示す地図(作成・王丹丹/人民中国)
鄧小平に三度言及された異色の経営者 

 「傻子瓜子」は、蕪湖にあるヒマワリやカボチャなどのいったタネを販売する会社で、創業者の年広久さんは異色の経歴を持つ。年さんは、かつて鄧小平氏に3回言及されたことで、中国の誰もが知る商人となり、「傻子瓜子」も全国にその名が知れ渡るブランドとなった。

 
傻子瓜子博物館で当時の様子が映った写真を紹介する年広久さん(写真・王浩/人民中国)



 年広久さんは7歳のときに父母に連れられ、蕪湖に流れてきた。その後、両親と共に果物屋を営んだが、1963年26歳のとき甘栗を販売したため、投機不正取引罪で1年間投獄された。72年から、年さんは食用のタネに商売を変え、その後各地を渡り歩き、多くの優れたものを吸収し、一口かじると三つに割れる、独特な香りのタネを生み出した。 

 78年以前の中国は公有制・計画経済の時代で、私営企業は早くは50年代にはすでに国有化され、全ての工場と企業の生産および営業は国家の定めるノルマに基づいて行われなければならなかった。社会全体の物資が不足しており、一般市民の日用品も配給切符に応じて供給されていた。そのような状況下で、年広久さんの監獄送りは推して知るべしだった。 

 中国では昔から、食用のタネが人々に愛され、祝日や年越しの際には必須とされてきた。人々のニーズに応じて、年さんはこっそりと日中は駅前で、夜は映画館で1袋5分(0・05元)でタネを売り歩いた。 

 78年に改革開放が実施されると、年さんは蕪湖の街中至るところを駆け回り、大声でタネの販売を呼び掛けた。1袋買うごとに、さらに一つかみのタネを購入者にあげていたため、「傻子(ばか)」と親しみを込めて呼ばれるようになった。 

 81年になると、年広久さんと息子の年強さんは郊外に土地を借りて工場を建て、蕪湖に初の私営企業を設立した。傻子瓜子工場は、タネをいるための大きな鍋が全部で九つあり、最も多いときには103人を雇用した。当時、国家は個人経営や私営経済の発展を支援していたが、雇用者数が7人を超えてはいけないという問題があった。多くの人が、7人以上雇うことは資本主義にあてはまると考え、雇用者数に制限をかけることを主張した。この論争が巻き起こした大きな波紋は、蕪湖から中央にまで及び、鄧小平氏が「まずは開放し様子を見てみよう」と言ったおかげで、年さんはこの危機から逃れることができ、鄧小平氏に対する感謝の念は一生忘れられないという。そして87年、私営企業の雇用者数に関する制限は撤廃された。 

 こうした制限から解放された傻子瓜子は急速な発展を遂げ、蕪湖の食用タネ産業の大幅な発展を促進した。一時期は全国大部分の市場を占め、同市は名実ともに「タネの都市」と呼ばれた。 

 現在、傻子瓜子は従来の手工業制から全自動生産ラインに切り替わり、ナッツや豆など類似製品は70種類以上にも及び、全国2000店舗以上の専門店を持ち、年さん一家の固定資産は7億元に上る。 

 年さんは今年81歳になるにもかかわらず元気で、ほぼ毎日市内の専門店に足を運んだり、息子が設立した傻子瓜子博物館に行き、国内外のメディアの取材に自ら応じる。彼は中国改革開放初期の個人・私営企業発展の代表的人物である。 

国有企業の改革発展の縮図 

 安徽海螺集団有限責任公司(CONCH)は中国における最大手の建材企業グループの一つであり、海螺水泥(CONCHセメント)と海螺型材(CONCH型材)といった二つの上場企業を傘下に持つ。また、「中国企業トップ500社」の127位にランクインされている。同グループの前身である寧国セメントは、もともとは蕪湖にあったわけではない。ある山の中の村で立ち上げられたこのセメント工場が、アジア最大手で世界第2位のセメント企業へと発展した過程は、中国企業が計画経済から市場経済へ、閉鎖から開放へ、遅れた状態から進んだ状態への改革発展の歩みを反映している。 

 70年代の中国では、セメント産業の生産量は少なく、製造法はエネルギー消費の高い竪窯による製造法と湿式法だった。国の計画に基づき、78年安徽省寧国セメントの設立計画が始まった。当時最先端だった新型乾式法が導入され、85年に建設は完了し、操業が始まった。同工場の初めての生産ラインは日本の三菱重工業株式会社から導入されたものだった。 

 生産開始後、同工場の位置する石灰石鉱山である大海螺山と小海螺山にちなんで、生産されたセメントの商標は「海螺(CONCH)」と名付けられた。もともと寧国は蕪湖の西南側の山間部に位置していた。しかし、10年間の経営を経て、新しく就任してきた経営陣は時機を見極めて大胆に改革し、長江沿岸で開放都市となった蕪湖で投資し、工場を建てることを早くも決断した。その後、自社の資金や技術、人材管理の優位性を生かし、蕪湖の白馬山セメントなど安徽省内の2社のセメント工場を吸収合併し、国有資産の整理と再編成に成功した。 


CONCH社が蕪湖に建てた大型セメント生産拠点。赤い屋根は同工場のシンボルだ(写真・黄勇)


 現代企業制度に基づき、寧国セメントを中心とするCONCHグループは96年に設立され、国有資産経営権を与えられた。その前後から、同グループは40社以上の中小企業を合併・買収し、グループの事業は急速に中国の東部と南部へまで広がった。 

 新型乾式法セメント生産技術で絶え間ない歩みを続けてきたCONCHは、完全な国産化の実現に成功した。2015年に完成した1日の生産量が1万2000㌧に達する四つの新型乾式法生産ラインは、全世界のセメント産業の最先端を走っている。40年間の発展を経て、CONCHセメントの年間生産量は工場設立当初の129万㌧から3億4300万㌧まで増えた。生産能力は全国の約10%だが、利潤は国内セメント産業の約半分を占めており、蕪湖における利益と税金の総額が最も大きい企業となった。 

 CONCHの迅速な発展の中で、特筆するべき出来事は三つある。一つはCONCHの上場。資本市場での効果的な運営が企業の実力を強化すると同時に、科学的なコーポレート・ガバナンスと先進的な管理モデルが導入された。二つ目はグループの再編成。同グループは03年に、完全な国有企業から株式会社になり、49%の株を同グループの7000人余りの社員が持つことにより、社員の働くモチベーションとイノベーション力を高めた。三つ目は外資との合弁事業の展開。とりわけ日本との提携により、企業の革新的発展がいっそう推し進められている。

 

取材を受ける海螺川崎装備製造有限公司の西川成二総経理(右から2人目) (写真・王浩/人民中国)


 09年、CONCHは日本の川崎重工業株式会社と連携し、合弁会社として海螺川崎装備製造有限公司を設立した。これにより、CONCHはセメント製造設備業界のトップに立った。CONCHは川崎重工とセメント排熱発電プロジェクトから協力を始め、誠意ある協力とメリットの相互補完により、省エネ・環境保護の分野において実りの多い成果を収めた。現在セメント排熱発電技術はすでに国内外に広げられ、中国セメント企業の工場設立基準に書き入れられた。また両社は世界初のセメントプラントを利用した都市生活ごみ処理プロジェクトも開発した。このような進んだ省エネ技術や環境保護設備の開発により、CONCHと川崎重工は中日企業協力のビジネスモデルとなっている。 

20年かけ育てた国産自動車ブランド 

 奇瑞汽車(チェリー自動車)は蕪湖が20年をかけて作り出した自動車メーカーだ。ゼロから出発したものの、やがて中国の若者に親しまれるようになり、さらに自動車の自動運転と新エネルギー・新材料の研究・開発をリードするようになった。同社はそこに至るまでに、中国の国産ブランドが悪戦苦闘し、革新を成し遂げる物語を書き続けてきた。 


チェリー社のQQがヒットしていた当時、結婚式の新婦を迎える隊列がQQで構成される様子がよく街で見かけられた(東方IC)


 2004年にチェリーの新車種「QQ」が発売され、若者たちの間で人気を博したことは多くの中国人の記憶に新しい。この「若者の最初の車」と位置付けられた超小型車の設計理念は「楽しい」ことだった。正面から見ると、ヘッドライトは丸い目のように見え、ボンネット上のエアインテークは含み笑いをする口の形で、全体の設計はかわいらしくて躍動感が感じられる。マイカーを買うのがまだ簡単ではなかった当時、排気量が小さく、燃費が低く、販売価格もほかの自動車の数分の一しかしないわりに躍動感が感じられるこの車は自然と若者に親しまれるようになり、発売後7年間で80万台の実績を記録した。


1997年、チェリーはこのようなぼろぼろな平屋から事業を立ち上げた

 
 会社の創設からヒット車を生み出すまで、チェリーは7年近くもの歳月をかけた。1997年、蕪湖が自動車産業に乗り出すとき、人も技術も資金も、さらに完成車の生産許可もなかった。こうした状況で、蕪湖は中国第一汽車集団有限公司に勤めていた安徽省出身の尹同躍さんを自動車プロジェクトの責任者として招き、白馬山セメント工場の譲渡金2億元を元金として踏み出した。 


チェリー社の尹同躍会長

 
 それは血のにじむような努力の日々だった。蕪湖経済技術開発区で数軒の古い平屋を借りて、尹さんは数十人を率い、昼も夜も懸命に研究し、わずか2年もしないうちに最初の自動車を作り出した。また、こんなエピソードもある。当時、最初の車を製造するために、チェリーは英国からエンジンの生産ラインを導入した。しかし英国から派遣されてきた技術者たちは生産ラインをなかなか完成することができなかったため、尹さんは「失敗したら、長江に身を投げる」という誓いを立て、自らやってみると決断した。 

 チェリーが創設されたばかりのころ、中国の自動車産業について二つの論調があった。一つは、自動車メーカーは外資企業と合併会社を作らないと未来がない。もう一つは、100万台以上の生産規模に達していないと自主開発が不可能。しかし、チェリーは「中国人の車を作る」という志を立て、創設当初から自主イノベーションを発展戦略の中心に位置付けていた。チェリーの年間開発費は営業収入の7%以上で、現在まで合わせて1万6000以上の特許を申請し、中国自動車メーカーのトップを誇っている。設計段階から品質を確実に保証するため、アジア最大の自動車実験技術センターも作った。 

 無から有を生み、小から大になり、チェリーの販売実績は通算台数で710万台に達し、中国自動車メーカーの1位を占めている。それに加え、同社は海外進出を実現した最初の中国自動車メーカーで、輸出した自動車が140万台に達し、15年連続で中国乗用車メーカーにおける輸出トップを維持してきた。 

 従来のコア技術から発展を遂げ、世界的なブランドを打ち立てるとともに、チェリーは早い時期から新エネルギーや自動運転などの分野に乗り出して優位に立ち、新エネルギー関係の特許保有数は世界の自動車メーカーの第3位を占めている。今年5月に開催された世界製造業大会で、チェリーが出展した燃料電池車の走行距離は700㌔に達した。 

 チェリーの躍進は蕪湖の自動車産業と関連産業の発展をけん引した。現在、世界企業トップ500社の約40社を含む870社以上の自動車・部品メーカーが蕪湖に集中している。 

6年で中国一のネット販売食品会社に 

 三只松鼠(3匹のリス)株式会社は蕪湖で誕生した食品のネット販売企業だ。創設当時の5人から現在の従業員3400人余り、70億元近くの年間営業収入になるまで、6年間を経て、「三只松鼠」は中国一のネット販売食品ブランドに成長した。


「三只松鼠」のキャラクターとその創業者である章燎原さん


 同社の創始者である章燎原さんは、これまでドライフルーツ業界で長年経験を積み、素晴らしい実績を上げていた。2012年2月、章さんは、「今こそeコマース(電子商取引)ブランドを作る最後のチャンスで、インターネット時代における『営業革命』を起こす時だ」と考え、ためらうことなく経営管理マネージャーという安定したポジションを捨て、「三只松鼠」を創業し、「風味、新鮮味、趣味(面白さ)こそ松鼠の味」という理念を打ち出した。

 会社を設立して1カ月足らずで、ある有名なベンチャー投資機関に見込まれ、一気に強大な実力を持つ合資会社になった。その年の6月に、中国最大のネットショッピングモール淘宝網(タオバオ)の「天猫(Tmall)」に出店した。最初の取引を行ってから、2カ月後に1日の取引量はすでに1000件に達し、しかもTmallのドライフルーツ部門のトップに躍り出た。中国で、「1」が4本並んだ11月11日(双11)は大規模なセールをする商戦日となっているが、同年の「双11」に、同社は766万元の売り上げを記録し、年末に中国の「イノベーション成長企業トップ100」に選ばれた。 

 以上は創設1年目の実績だったが、その後の成長ぶりを見てみよう。13年の売り上げは3億3000万元、14年は11億元、15年は25億元、16年は50億元、17年は70億元だった。現在、同社の製品は各種eコマースのルートを通して販売されており、1日の取引量は150万件を超えている。特に昨年の「双11」には167カ国・地域から注文を受けた。

 
「三只松鼠」の品質管理システム(写真・王漢平/人民中国)

 
 同社が打ち出した「松鼠の味」というのは、「原産地のもの、最も新鮮なもの、最も満足できるものを探す」ことだ。そのため、原料から加工、サービスまでのサプライチェーンを全てカバーする、統合的な経営モデルを構築した。同社が作り出した新しいネット農業生態圏は産業チェーンの上流にある10万戸近くの農家と500以上の提携業者、さらに下流にある7000万人以上の消費者をつないだ。同社は独自の品質管理システムを作り、製品の口コミ、提携業者の評価指数、物流配達評価指数、消費者クレーム解決率などのデータをリアルタイムでチェックでき、生産者、中間業者、消費者をつなぎ、誰に売るか、どんな評価を受けたかという従来の食品業界での難題を解決した。 

 同社は創業当初からネット上で最高のユーザー体験店を作るとアピールし、カスタマーサービス担当者は「リス」に扮し、親しみを込めて顧客を「ご主人様」と呼んでさまざまな行き届いたサービスを提供し、中国eコマースの顧客対応におけるシチュエーション化したサービスモデルを作り出した。 

 傻子瓜子から三只松鼠、CONCH、チェリー自動車まで、蕪湖の改革成果を示す四つの「看板」は中国の改革開放40年来の最も大きな社会・経済の発展と変遷を物語っている。 (写真提供・蕪湖市人民政府新聞弁公室)

 

 

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