武漢の中日交流史を振り返る

2020-05-15 16:35:44

前駐日中国大使 程永華=文

 

 市外へ通じる道が76日間閉ざされていた武漢市は、4月8日にようやく「封鎖解除」の日を迎えた。全国的に春の足音が聞こえる中、長江流域の「英雄の町」はウイルスとの闘いでついに大きな成果を上げ、これまでのにぎわいと面影を取り戻そうと動き始めている。76日間という日々は、武漢市民が積み重ねた辛抱と献身的な貢献の結晶であり、中国政府と人民が感染拡大に打ち勝つ揺るぎない決心と筆舌に尽くし難い努力の証しであり、中国人が全力を尽くして感染拡大の予防・抑制の全面的かつ徹底的な勝利をつかむよう励ました。

 

4月8日夕方に武漢の武昌駅から出発し、黄鶴楼横を通過する高速鉄道車両(asianewsphoto)

 

発揮される助け合いの精神

 ウイルスには国境はないが、社会には情がある。突如襲来したウイルスに対し、多くの国々が中国と武漢への理解と支持を示した。各国が肩を並べて感染拡大防止のために協力する中、困難を共に克服する心打たれるエピソードが数多く生まれた。中でも日本は、中国の一衣帯水の隣国として真っ先に支援の手を差し伸べた。日本政府と各界はマスクやゴーグル、防護服などの医療物資を中国に何度も寄贈し、支援物資の段ボール箱に添付された「山川異域 風月同天」などの漢詩は、特に中国のネット上で話題になった。中国側はこの友情を胸に刻み、国内の感染拡大を基本的に抑制した後、日本側の要請に応じてできる限りの援助と支持を提供した。中日が感染拡大との闘いを巡って展開した積極的な助け合いと協力は両国民の心の距離をより縮め、両国関係を発展させる民意の基礎をさらに打ち固めた。

 ところで武漢は中国中部における歴史的にも産業的にも重要な都市であり、昔から対日交流・協力に大きな影響力を持つ存在だ。私は長年の対日外交活動の中で、武漢に数々の忘れられない思い出があるが、中でも最も印象的なのが当時の中曽根康弘首相の武漢訪問に同行したことだ。

 

北京大学新聞・伝播学院広告学部から寄贈されたマスクを受け取る沖縄県の玉城デニー知事(右)(写真提供・北京大学新聞・伝播学院広告学部)

 

武漢で歓迎された中曽根首相

 1984年3月23〜26日に行われた中曽根首相の中国公式訪問には、安倍晋太郎外務大臣らも随行した。私は中国外交部の一員として、応接活動の全てに携わった。中曽根首相は北京で鄧小平氏との会見などの正式日程を終わらせると、25日に武漢を訪れた。湖北省と武漢市の政府高官は中曽根首相をはじめとする訪中団に武漢の歴史や文化、経済の発展状況を細かく説明した。訪中団はそれらに真剣に耳を傾け、双方はより意義深い友好的な交流を行った。

 訪中団が武漢に滞在した時間は長くなかったが、内容は豊富だった。中国の歴史や伝統文化に強い関心を持っていた中曽根首相は、時間をつくって湖北省博物館を見学し、歌舞劇『編鐘楽舞』を興味深く鑑賞した。編鐘とはたくさんの鐘からなる打楽器の一種だ。博物館の大事な宝であるこの編鐘が、戦国時代(紀元前475年~前221年)の曾侯乙の墓から出土された1978年は、まさに「中日平和友好条約」が締結された年だ。26日に古刹帰元禅寺を訪れた訪中団は、住持の昌明法師率いる全僧徒に手厚くもてなされた。仏教文化に強い関心を持つ中曽根首相は、よく座禅を組んでいた。そしてその時は昌明法師と膝を突き合わせ、中日の文化と宗教の交流にまつわる悠久の歴史を共に回想し、寺で精進料理を体験した。

 また訪中団は武漢で農村にも訪れ、田畑にまで足を運んで農民と会話した。当時はなまりのきつい方言を話し、「標準語」が分からない農民も少なくなかったため、双方の会話は日本語―標準語―方言という「二重通訳」が必要だった。これも訪問時の面白い逸話の一つだ。

 武漢訪問が円満に終了し、日本へ帰国するために車で空港に向かっていた訪中団に予想外の出来事が起きた。大勢の武漢市民が道の両側に並んで、訪中団の車列を見送ったのだ。中曽根首相はその光景にいたく感動し、車を止めるよう指示を出して、車から降りて市民と親しげに言葉を交わした。この反応を見た市民たちはさらに喜び、中曽根首相のもとへ駆け寄り、警備のバイクが近付けないほどの人だかりができた。その時の武漢訪問は、中曽根首相をはじめとする訪中団全員に非常に良い印象を残した。

 

1984年3月26日、武漢の帰元禅寺で昌明法師(右)と言葉を交わす中曽根康弘首相(中央)(新華社)

 

地方交流の重要性再認識

 その後、私は駐日中国大使在任中、2011年に当時の湖北省長・王国生氏の招きで再び武漢を訪れる機会を得た。武漢では歴史的な遺跡や現代的都市づくりの発展状況を中心に視察したが、この都市は数十年間で驚異的な経済と社会の発展を遂げ、対日交流・協力の展開においてより強みがある相互補完性を持つようになったことに気付いた。古くは「荆楚」の名を持つ湖北省は、魏・呉・蜀の三国時代の歴史が繰り広げられた重要な舞台だ。そして『三国志』は日本に広く知れ渡り、日本人が大きく関心を持つ中国文化の一つだ。

 大使在任中、私は日本全国を回り、日本の各界に武漢など中国の地方都市の強みや特色を紹介し、交流の懸け橋を積極的に架け、中日の地方交流・協力とウインウインの発展を促すために取り組んでいた。

 

2011年に武漢を訪れ、当時の湖北省長・王国生氏と会見する筆者(写真提供・筆者)

 武漢と日本のつながりについて触れる際、無視できないことがもう一つある。武漢が国外との友好都市提携を初めて結んだのが日本の大分市だということだ。そして大分は、中国の古い友人である村山富市元首相のふるさとでもある。日本での大使在任中、村山元首相とは何度も交流する機会があったが、氏は大分と武漢の友好交流・協力事業をたいへん気に掛けていた。今回、武漢が感染拡大の大きな被害に見舞われてから、氏は96歳という高齢にもかかわらず自ら筆を取り、「武漢加油」(武漢頑張れ)と揮毫した。その力がこもった4文字と、中国と武漢を元気付けるために撮影された動画は、武漢と大分、そして中国と日本の人々の友好を生き生きと物語るものになった。

 武漢は歴史的に重要な交通中枢都市であるだけではなく、改革開放以降に中国が日本などと交流・協力を展開した重要な場所だった。現在、武漢の封鎖が解除され、感染拡大との闘いに希望の光がより輝いている。感染症にさいなまれた武漢が痛みの中から復活し、さらなる成長を遂げることを望んでやまない。そして全人類の共同の努力の下、中日を含む国際社会が一日も早く感染拡大との闘いに打ち勝ち、社会の秩序や国民間の交流が全面的に回復してほしい。そのときには、たくさんの日本の友人が武漢を訪れ、その独特な魅力を体験してもらいたい。

 春の気配がますます感じられ、うららかな光が武漢を照らす中、中日友好が末永く続くことを望む。

 

関連文章