「中国式民主」について考える

2024-09-10 09:27:00

拓殖大学教授・ジャーナリスト 富坂聰 

いつになったら中国は民主選挙ができるようになるのでしょうか? 

日本ではよくこんな質問を受けます。 

日本人が中国をどう考えているのか、よく分かる質問です。 

日本人は中国を民主主義の後進国と位置づけ、いつかは自分たちのような民主主義の国になる、と考えているのでしょう。当然ですが日本と中国は背負っている歴史も違えば政治体制も大きく異なります。どんな苗床から生まれたのかという出発点も違えば、何を目指すのかという目標も同じではありません。そのことに日本人は少しも関心を持っていないまま中国を評しているのです。だから、正しい政治体制のモデルは常に「一つしかなく」、どの国もそれを目指しているのだと無邪気に信じています。また社会主義と聞けば機械的に「非民主的」と考える習慣も根付いています。 

隣接する二つの国の国民感情の対立は、その根本に認識や文化のギャップが存在します。近い距離であればあるほど「近似」を基本に違いの「異」をことさら強調するために、感情的対立はより深刻になりがちです。この「民主」をめぐる問題も、認識のギャップ、文化ギャップが大きく作用していると思われます。 

現在の日本の政治環境には日中の違いを強調して票を獲得しようとする政治家がいて、また防衛力強化のために日本国民に中国を危険視させようと、中国を「受け入れ難い価値観を持つ異の国』」と位置付けようとする動きがあります。このとき、道具として使われるのが「民主」です。 

こうした事情を踏まえた上で、少し誤解を整理してゆこうと思います。まず中国を「民主の後進国」と位置付ける問題からです。これに関して中国はよく「『西側的民主』はすでに実験済み」と反論します。それは中華民国時代を指しているのですが、まさに欧米式「民主主義」を取り入れ選挙を行った時代です。しかし、その制度が当時の中国が抱えていた問題、窮乏し虐げられる農民や労働者を救うことができたでしょうか。できませんでした。軍閥が割拠し、格差はむしろ拡大し、貧しい農民や労働者の窮状はより悪化したのです。 

そうした農民や労働者のために立ち上がった若者たちの運動が、後の中華人民共和国の礎となっていきました。民国時代の留日学生たち、例えば成城学校から早稲田に進んだ湃などが有名ですが、彼らが帰国後に従事した運動には、まだ共産主義と言う名前はありませんでした。反封建主義、反官僚主義です。その意味では中国に暮らす下層の農民、労働者が人間らしく生活できることを目指したのが中国式民主の入り口であり、それは新型コロナウィルス感染拡大2021年に達成された「貧困脱却」まで一本の線でつながっているのです。 

生存こそ最大の民主という考え方に従い14億(スタート時は4億人前後)のすべての民が人間らしく生活できるという課題を背負ってスタートした中国と、明治維新後、いち早く先進国から認められようと、とにかく急いで普通選挙を実施し、憲法を制定しようとした日本との違いは鮮明です。 

中国には中国に適した「民主」があるというのはそうした意味です。同じように中国が万能薬のような「民主」はないとする理由にも少し触れておきましょう。 

分かりやすいのが2010年にチュニジアで始まった民主化運動「アラブの春」です。当時、西側メディアのほとんどが「アラブの夜明けだ」と絶賛しました。しかし、現状はどうでしょうか。混乱を極め、一部では「アラブの冬」という言葉もあるほどです。 

日本では「民主選挙の有無」「言論の自由」「人権」が殊更民主を測る尺度として強調されますが、混乱を決めた状況下で、それらは実現されたのでしょうか。 

ついでに触れておけば、「人権」において、中国自身は現状を決して完成形とは位置付けていません。進化の過程であり、国情に即して充実させてゆくと考えているのです。 

これは資源の配分の問題でもあります。資源は常に有限であり、何を優先的に取り組むかはそれぞれの国の判断することです。中国は、全国民が健康的に生活できることを重視し、その第一段階として「発展」を重んじ、発展を実現するために不可欠な「安定」を優先しているのです。 

課題の取捨選択は政治の判断になりますが、そこに民意が反映されているのか、という点で、日本には「普通選挙によって政治参加が保証されている」ことを中国に対する優越性ととらえる傾向があります。 

しかし、残念ながらこれも机上の論理でしょう。実際、先の東京都知事選や次の国政選挙で、民意が十分に反映されると考えている日本人がどれだけいるのでしょうか。私には疑問です。 

逆に中国は、課題を汲み上げる能力が高く、確かな実績も積み上げられています。 

例えば環境問題です。PM2.5の問題で昼間でも空が真っ暗になる映像を日本のメディアが競って報じたのは2014年ごろです。しかし、いまどうでしょうか。北京には晴天が戻り、全国の河川の汚染度も下がりました。私が驚いたのは、水質が最悪だった北京の亮馬河で、泳いでいる人を見かけたときです。 

中国は新エネルギー産業の育成にも力を注ぎました。石炭に深く依存して発展してきた中国は、「脱炭素」とは相性が悪いと考えられていました。しかしいま、太陽光発電でも風力発電でも生産設備から技術、発電量に至るまで世界をリードする存在になっています。ごく短期間に環境対策と経済発展を両立させたのです。中国の国民は生活水準の向上と同時にきれいな空気も手に入れたのです。 

1960年代、70年代と公害問題に苦しんだ日本は、技術革新と工場のアウトソーシングで対応しましたが、中国は生産設備を自国に残したまま対応しました。その過程では例えば鉄鋼メーカーはかなり厳しい排出基準を強いられました。 

東部・沿海部に偏っていた経済発展をいかに全土に広げ行くのかという課題に対しても中国は答えを出しています。交通網の整備、地域経済の活性化、大規模開発、西で発電し東で消費する計画など、枚挙に暇がないほどです。 

また行政サービスも進化を続けています。行政手続きの簡略化とワンストップ化は日進月歩で、「スマホ一つでどんな手続きもできる」時代に確実に近づいています。 

普通選挙は、現在の政治が抱える問題を可視化し、対立点を整理するのに役に立つと考えられています。確かにその効果はあるのでしょう。それに対し中国の「民主」は、極めて事務的に生活の中の課題を吸い上げることに力点が置かれているのが特徴です基層選挙の後は基本的に間接選挙となる中国は、普通選挙を通してではなく、専門家を招いた会議を繰り返すことで課題を整理し、会議のレベルを上げながら議論を重ね、最終的に政策へと昇華させてゆくのです。この間、数10回に及ぶ会議、ときには100回を超える会議をこなしてゆきます。郷や鎮、県、市、省の人民代表を通じた会議もあれば、党の会議、より地域に根差した生活文化会党外人士や外国の専門家を招いた会議も行います。 

民意は重要でしょう。しかし、民意に諮る作業は時にプロフェッショナルではありません。例えば、悪天候の中、飛行機を飛ばすか否か、乗客の多数決で決めることには限界があります。その意味で政治にもプロフェッショナルは必要で、それを共産党が担っているというのが中国のスタイルなのです。 

政治のプロフェッショナル化という意味では、欠かすことができないのが「信頼」と「委託」です。政治が国民から見えないところで暴走しないように監視することが求められます。西側社会には制度としての三権分立があり、外にはメディアという監視機能もあります。 

西側社会が中国を批判するとき、しばしばやり玉に挙げるのが、中国には自由に権力を批判できるメディアがないということです。中国のメディアが権力を批判できないわけではありませんが、西側社会ほど活発ではありません。 

ただ、だからといって中国が「監視」を軽視しているのかといえば決してそうではありません。毛沢東と黄炎1947年の延安での会話を持ち出すまでもなく、重視されてきました。但し、両者で決定的に違うのが、中国は外からの批判ではなく「自浄」と「自負」に拠っているという点です。自浄に関しては、主に党員の規律違反を取り締まる規律検査が機能していることが、監視とされます。 

こう書けばすぐに「お手盛り」だとか「茶番」だという批判が聞こえてきそうですが、現実の中国を見る限り、機能していないとは言えないのではないでしょうか。とくに権力に付きまとう利益の独占という意味での反腐敗キャンペーン、汚職撲滅は現政権でこそ凄まじい勢いで進められてきました。 

一方で西側社会の「メディアの監視」は本当に機能しているのでしょうか。メディアの監視といっても、あくまで商業ジャーナリズムです。情報に値段をつけて売っているメディアが、価値のある情報を多く握っている権力をどれだけ監視できるのでしょうか。権力から情報を取るためにどうしているのか。そこに癒着がないといいきれるでしょうか。また政策とは関係ないスキャンダル報道が批判の真ん中に来るという問題も指摘されます。 

その意味では、西側が考えているほど優劣は明白ではありません。 

では、中国の「自負」という点ではどうでしょうか。これは極めて属人的なものなので説明は難しいのですが、実例を挙げましょう。 

1つは新型コロナウイルス感染症対策で見られた党員のボランティアです。2つ目は貧困脱却を進める過程で貢献した知識青年たちの働きです。貧困脱却では農村で殉職した黄文秀さんをモデルにしたドラマ『大山の娘』が思い出されます。都会で大企業に就職する機会を捨て、極貧の村に入って農民たちを豊かにするために奮闘した女性の実話ですが、劇中では彼女と同じように農村に向かった青年が少なからずいることが描かれていて驚かされました。日本では「きれいごと」だと切り捨てられそうですが、現実なのです。 

最後に、トランプ政権から始まった専制主義(権威主義)VS民主主義という米中の対比について指摘しておきます。この話題で最も象徴的な事件があります。2021年1月6日に起きた米連邦議会への乱入事件です。 

民主主義を支える要素として法律とルールの遵守が重要だという議論があります。選挙結果に従うというのも重要なルールのはずですが、事件は起きました。問題は、事件そのものより、事件後の政界、とくに共和党の動きです。事件が起きた当初、トランプを「民主主義の破壊者」と批判していた多くの共和党員がいま、当時の言論を封じ込め、トランプ支持に回るという驚くべきモラルハザードが起きていることです。つまり票や権力の前に、政治家たちは「民主主義の破壊」と自ら断じた事件への批判を封印してしまったのです。これに対しアメリカ国内でも政治学者や歴史の専門家の間から批判の声が上がっています。トランプに膝を屈した共和党員たちの行動を評して、専門家が口をそろえて使うのが「専制主義」や「権威主義」という言葉です。つまりアメリカの現状こそが「専制主義」だという皮肉な状況が生まれているのです。 

そうであればなおさら中国がアメリカから「民主」を倣う必要はないのではないでしょうか。 

こうして「民主」をめぐる米中の対立を考えてみましたが、優劣を競うことに大きな意味があるとは考えにくく、り万能薬はないという結論に至るのではないでしょうか。 

 

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