祖父母が繋いだ戦争の記憶

2025-07-11 14:29:00

文=太田実来 

私の祖父母は、「友好」と刻まれたお墓に眠っています。青春時代を中国で生き抜きました。祖父母は、お祝い事やお正月には必ず手作りの水餃子を作ってくれました。中国語の歌を二人で楽しそうに歌っている姿が今でも頭に浮かびます。水餃子を食べながら祖母が必ず繰り返す言葉がありました。「戦争は絶対にやってはいけない。武力では何も解決しない。人間は話し合うことができるのだから、手と手をとり合って解決しなくてはいけない」この祖母の言葉に込められた想いを深く知ることになったのが、祖母が残してくれた手記でした。 

私の祖母は、19453月、16歳で勤労奉仕隊として当時日本では「満州」と呼ばれていた中国の東北地方に渡り、敗戦を迎えました。祖母が命を繋ぐ日々は私の脳裏に鮮明に浮かんで胸が苦しくなりました。生きる希望も絶たれた中で、ソ連軍の侵攻を受けながら、開拓団へ逃れ、仲間を失い、飢えと闘い、日本で教育された思想への怒りと葛藤を抱きながら日々を生き延びたこと。炭鉱では、日本人でありながらも一人の農民の娘であるとされ、同じ働く仲間としての扱いを受けたこと。子守として働く中でも、中国の人たちのあたたかい心遣いに触れた日々は、祖母の心を救い、かつて戦争をし合った国で生まれた愛情に人生観が変わっていったこと。帰国後は、自身の戦争体験を声にだして伝える活動を続けていたことも知りました。そして、中国での体験をいつか本にしたいという思いで書き溜めていたものを、祖母が90歳の時にようやく母と私で一冊の本として形にすることができました。 

母の戦争の記憶をまとめた本『海を渡っていった少女 

祖母が帰国から20年後、炭鉱で子守として家族のように過ごした一家の消息を探しあて、文通を始めました。祖母は私が遊びに行くたびに嬉しそうに手紙を見せてくれました。いつもラジオで中国語の勉強をしていて、それが5年後に必ず中国に会いに行くという約束を果たすためだったと知りました。訪中し、再会を果たした時「私たちの友情を孫の代まで語り継ぎましょう」と手を取り合い誓い合ったことも知りました。この友情は祖母の人生にとってかけがえのない宝物だったと思います。 

 

切に保管されている手紙 

祖父の想いを知るきっかけになったのは、祖父が亡くなる前に「俺は八路軍なんだぞ」といって延命治療を拒んだことでした。私の祖父は1944年、19歳で中国の東北地方に渡り、林飛行部隊に配属され、敗戦を迎えました。その後は八路軍の捕虜となり、中国空軍の創設時に、教官として飛行機の計測器の技術を中国の少年兵に教えました。祖父は、中国航空学校での教官体験を手記として残しています。お互い言葉の通じない壁の中で、学生の熱心な精神が伝わり、困難な仕事をやり遂げ、共に喜びを感じたこと。日本の軍隊の中では日常茶飯事であった殴打は、中国の八路軍では許されず、人は心をこめて教育するものであるという教育思想の違いで、一人の敗戦国の捕虜である自分が尊敬と労りを受けたこと。共に助け合い苦難を乗り越え、兄弟のような深い友情で結ばれたことで、忘れられない感動的な青春の日々を過ごしたこと。戦争という時代に、かつては憎しみ合った日本人と中国人が共に助け合い友情を築き上げた祖父の人生は、胸を張った後悔のないものだったと思います。1986年、中国空軍創立40周年記念に日本人教官たちは北京に招待され、祖父は教え子と感動の再会を果たし、そこから文通が始まりました。祖父も嬉しそうに手紙を私にたくさん見せてくれました。2007年の中国空軍創立60周年記念に再び招待を受けた際、祖父は私の母も誘い参加し、牡丹江にある戦友が眠るお墓を慰霊しました。日中双方の遺児同士が友好を約束し、記念に松の木を植樹しました。その時に祖父が残した感想文には「私の青春時代が中国空軍創設のために役立ったことを一生の誇りとして、この感激を孫の代まで伝えて行こうと強く、強く思いました。私たちの子供や孫たちが来るときには、大きな松の木になっていることでしょう」と記されていました。 

先月、私の母と私の兄、そして兄の子供が牡丹江を訪れ、祖父の仲間を慰霊するとともに、大きくなった松の木に想いをはせました。私は体調面から訪中できずにいますが、私の胸には深く深く、祖父母の想いが刻まれています。訪中した際には、自分の目で見て感じたことを大切にして、祖父母が中国と日本の友好を願い続けたように、私も日本と中国の友好を願い続け、祖父母の体験を伝えていきたいと思っています。 

人民中国インターネット版

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