東京裁判がつくり出した戦後

2026-04-30 14:43:00

上海交通大学人文学院副研究員 石田隆至=文 

頭から米国はベネズエラやイランなどに明らかな侵略行為を重ねている。これに対し、メディアでは、同国が国際法や国連憲章などを「無視し始めた」という指摘が見られた。第2次世界大戦後、米国とその同盟国は世界各地への侵略行為を繰り返してきたのではないか。アフガン戦争やイラク戦争、さらにはベトナム戦争や朝鮮戦争にまでさかのぼれば、戦後の米国にとって侵略を禁じる国際法など存在しないかのようだ。こうした戦後を形成した源の一つが、今年開廷80周年を迎えた東京裁判にある。 

東京裁判では、日本による侵略戦争の発動、そして南京やマニラの大虐殺等の戦争犯罪の責任者が、初めて国際法に基づいて裁かれた。その法的、政治的意義はいかに強調しても余りある。 

ニュルンベルク裁判と東京裁判では、「平和に対する罪(A級犯罪)」「人道に対する罪(C級犯罪)」という法的根拠を整備し、適用したことはよく知られる。侵略戦争の発動者に厳罰を下し、ユダヤ人ホロコーストのようなかつて存在しなかった戦争犯罪を裁いた。それらが再発防止に向けて果たした法的意義は大きく、ジェノサイド条約の成立(1948年)、国際刑事裁判所の設立(2002年)へとつながった。 

A級、C級など戦後につくり出された法的根拠に対しては、罪刑法定主義に反する事後法だという批判もあった。罪刑法定主義とは、国家権力が次々と法律をつくり、過去の行為にさかのぼって適用する暴走を禁じるための原則だ。日本人戦犯の弁護人らは、これを根拠に東京裁判そのものを否定しようとした。これに対し、当時の法学者や司法官たちは、法律制定者自身が重ねた犯罪を罪刑法定主義を理由に免罪するのは、法の精神に反するとはねつけた。こうして、未曽有の戦争犯罪に対して、法の支配による裁きが実現し、国際法に基づく戦後世界が基礎付けられた。 

ここで疑問が生まれる。侵略戦争と戦争犯罪を国際法で裁いたのなら、なぜすぐに朝鮮戦争やベトナム戦争などが相次いで起こり、生物・化学兵器を用いた虐殺さえ繰り返されたのか。侵略戦争と戦争犯罪の再発を防ぐという戦犯裁判の目的は果たされなかったのか。 

これは、東京裁判の負の側面を確認することで見えてくる。 

第一に、裁きの対象から外れた責任者や犯罪項目が多数存在した。最高責任者である昭和天皇に対しては、開廷準備の段階で米国が不訴追を決定した。岸信介ら100人近い軍国主義者は拘留されただけで法廷審理もないまま、不起訴で釈放された。ソ連などはこれに反対したが米国が押し切った。細菌戦・毒ガス戦については証拠を収集しておきながら、やはり米国が開廷前に免責を決めた。強制連行・強制労働、三光作戦、性暴力など、日本軍がアジア各地で起こした大規模加害の多くもほぼ不問にされた。 

これらは、第二の負の側面の帰結でもある。冷戦の開始に伴い、米国は戦犯裁判を政治的に利用し始めた。日本を資本主義陣営にとどめるために、審理を簡略化して早期に終結させることを優先した。つまり、米国は、東京裁判を侵略戦争の再発を防ぐための戦後処理の場から、自国主導の戦後国際秩序を構築するための「闘技場」へと変質させた。台湾や朝鮮半島などの植民地支配が扱われなかったところにも、米国はじめ西側先進国にとって都合のいい西洋中心主義的な裁判であった側面が表れている。だからこそ、戦後の米国が侵略をいくら繰り返しても裁かれることがない反面、中国やソ連(ロシア)に対しては軍事膨脹主義、国際ルールへの「脅威」だと繰り返しされてきたのである。 

こうしたゆがんだ帰結を招いた要因は何か。ニュルンベルク裁判は曲がりなりにも米英仏ソの戦勝4カ国が共同運営したが、東京裁判は米国一国が主導した。米国の意向が強く反映される力関係の中で法の支配がねじ曲げられ、政治的な思惑に引きずられていった。三光作戦や無人区政策、中国国内の強制連行の規模を考えれば、ホロコーストといえる犯罪だったが、C級犯罪の適用やその拡張を検討することもなかった。その多くが、中国共産党の支配地域で起きていた犯罪だったからである。 

1952年4月に発効したサンフランシスコ講和条約で、日本は東京裁判の結果を受諾し、戦後の国際社会に復帰した。侵略加害の実態解明もその責任の所在も中途半端なまま、日本国民は清算されたと思い込んだ。だからこそ、この時期に「平和国家」という自己像が肥大化していった。日本の「平和主義」は、侵略戦争の十分な反省から生まれたものではなかったことに注意を要する。 

この講和自体が中国や朝鮮半島などの被害国やソ連を排除した片面的なものだった。このこと自体が、被害国との戦争(責任)観とのズレの大きさを物語っている。72年9月に日中間の国交が正常化すると、中国社会では日本との友好に期待が高まった。その背景には、戦争放棄を定めた平和憲法と、「平和国家」に生まれ変わったことへの信頼が存在した。90年代以降に歴史修正主義が高まりを見せると、「平和国家」がなぜ過去の過ちに向き合えないのかと、中国社会は理解に苦しんだ。 

東京裁判からサンフランシスコ講和を経て独立に至る経過は、最低限の反省の素振りを見せるだけで国際社会に復帰できたという「成功体験」となった。西側諸国の共産圏封じ込め政策に追従し、協力すれば、戦争責任をそれ以上問われずに済む。戦後も残るアジア蔑視と反共主義をてこに、国内矛盾から目を逸らすこともできる。政治的にも社会的にも過去の過ちと決別しようとしない戦後は、こうして「日米合作」で出来上がった。 

日本政府による加害責任の否認は徹底している。対外的に戦争責任を極力認めようとしないばかりか、国内の戦争被害者への責任も認めてこなかった。原爆被害者に「医療手当」は出しても、責任の対価である「賠償・補償」は拒否してきた。引揚者やシベリア抑留者についても同様である。都市空襲の被害は、国民が「受忍(我慢)」すべき経験としてしりぞけてきた。他方で、軍人・軍属に対しては、戦後総額50兆円といわれる恩給等が支払われてきた。天皇の軍隊に「貢献」した者には手厚く報い、天皇の戦争による被害は存在しないかのように扱った。皇軍の過ちを決して認めようとしない欲望に、東京裁判がお墨付きを与えてしまったのである。 

昨年11月の「高市発言」は、その政治的欲望が露見したと捉える必要がある。 

台湾に対する領土的野心は、「台湾有事は日本有事」と言い出した近年に入って生まれたものではない。72年の国交正常化交渉の記録を確認すれば、自民党政権および政治家が対外的な言葉とは裏腹に、台湾への宗主国然とした認識を持ち続けていることが分かる(『ドキュメント 日中復交』時事通信社)。とはいえ、かつては党内でしか表明してこなかったこの反動的野心を最初に公言したのが、退任後の安倍晋三元首相である。高市早苗首相は現職として初めて国会答弁の中で露わにした。「専守防衛」を逸脱する「安保三文書」の閣議決定やその改定も同じように、軍国主義への執着が岸田文雄政権から高市政権にかけて表面化しただけだと捉える必要がある。 

中国「脅威」論が高まった日本において、中国に対する認識や姿勢をどのように変えていくことができるのか。総選挙での「高市政権」の圧勝を見せつけられた後では、絶望的にも思える。「脅威」論の基礎にある対中国認識が事実からした、勝手なイメージや虚像によって構成されているだけに、なおさらである。 

中国に暮らす日本人としては、中国の実像、その模索と実践を少しでも知ってほしいと願うばかりである。先進国を含めて世界各国が経済成長に行き詰まり、国際秩序もなし崩しにされている。中国も困難な局面に直面しているが、それを克服するために新たな理念とアプローチで挑戦を続けている。日本では知られていないが、グローバルサウス各国から訪れる多くの政府関係者や研究者たちは、その平和的な発展と共生の実践に学ぼうとしている。私も関連会議に参加して、その熱気に肌で触れた。例えば、中国が近年提唱してきた「四つのグローバル・イニシアチブ」を一読してほしい。東京裁判が目指したはずの協調的かつ平和的な戦後世界が、より積極的な姿で追求されていることが分かるだろう。  

石田 隆至(いしだ  りゅうじ) 

1971年大阪生。上海交通大学人文学院副研究員。日本と中国を往来し、東アジアの戦後和解や戦後日中関係、脱植民地主義について研究発信を続ける。 

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