北京での日本工業展

2023-05-23 15:35:00

展覧会を参観したあと、周総理は「日本工業展覧会の北京(ペイチン)での開催は成功をおさめたと思う」という意味の評価をくだされた。ながい経済的·文化的なつながりを背景とした中日両国人民の友好と貿易関係は、日工展の開催を機にいっそう増進され、こんごの発展が期待されている…… 

展覧会の盛況

開幕式参列のために数千人の人があつまった北京展覧館の広場の上には、中日友好の大文字をたらした二つのアドバルーンが秋空たかくあがっていた。中日友好の気分をいやが上にもわきたたせるように、バクチクの音がなりひびくなかを、貴賓席からたちあがった彭真(ポンチエン)市長は展覧館の入り口へすすみ、両端を中日両国の二人の娘さんの手ににぎられたテープに鋏をいれた。人びとはどっと展覧会場に足をふみいれた。こうして、十月五日、日本工業展覧会は正式に開幕された。

開幕式の翌日はまだお祭り気分のぬけきらない国慶節あけの日曜日だったため、朝の九時から午後四時までに会場におしよせてくる参観者はひきもきらないありさまだった。休日を利用して自分たちに関係のある機械をみようと考えてやってきた労働者もいるし、オモチャなどを見ようと思って立ちよった動物園がえりの子供づれの親子もいた。あの町かどにはり出された工業展のポスターにひきつけられてやってきたものも多い。日本からおくられたこのポスターからは、二人の青年男女が純真な親しみのあるほおえみをなげかけている。それを見て日本人民の深い友情を感じないものがあったろうか。

展覧会がひらかれてすでに半月あまりになる今日でも、毎日参観にくる人はあとをたたない。建設工事場からきた人たちであろう、ブルドーザーのそばに足をとめて何かたずねている。中国人の説明係の説明では物たりないとみえて、かたわらにいた日本の同業者と手まねで話している。郊外の人民公社からきた人たちは農業特設館に興味をもっているようだ。ここにならべられた二〇余の展示板には、日本農村での近代農業技術の普及状況が示されている。計器館ではガスクロマトグラフに熱心に見入っている一人の女子大学生がいた。日本の技術者があるいは計器を指さし、あるいは説明書の図表を示し、鉛筆で説明書の上に図を書いたりして、熱心に説明している。こうして二人はおおかた半時間あまりも話しつづけて、館内のさわがしさも気にならぬ様子だった。参観者ばかりでなく、工業展覧会が開かれてから、両国の技術者のあいだにも広はんな意見の交換や相互訪問がおこなわれ、深い友情がむすばれている。

参観者が、六つの展覧場と二つの広場に展示されている日本の東京、大阪、名古屋、北九州等の六〇〇余のメーカーや商社から提供された一二〇〇余種の展示品をみて感ずることは、こんどの展覧会が七年まえに同じ場所でひらかれた日本見本市とは大きなちがいがあることである。

この前の見本市が軽工業品を主体としていたとすれば、今回の展示品は化学繊維製造設備、精密工作機械、化学工業設備、電子計器、農業機械など、ある程度日本の工業の水準を示したものが主である。規模も大きく展示面積はこの前より五〇〇〇平方メートル余りも広く、展示品も前回の四倍にたっしている。

はばむことのできない中日貿易の大勢

展覧団事務局長押川俊夫氏の話では、比較的短時日ちゅうにこれほど大規模な展覧会の準備ができるだろうとは予想していなかったとのことである。また、こんどの展覧会は日本が海外で開いたものとしては最大のもので、出品内容がこれほど全般にわたった点でも今度がはじめてであるという。

中国で日本工業展が開かれるという話がつたわると、日本各地の中小企業は、いずれも優秀な製品を出品したいという意気ごみで、ぞくぞくと日工展準備事務局にあてて出品を申しこんできた。こんど展示された電子顕微鏡は、明石製作所と日本電子株式会社の製作になるものである。計器館にはガスクロマトグラフが展示されているが、そのうちの一つは中企業に属する柳本製作所の出品である。また、多くの大企業もけっしてそれに遅れをとっていない。日本最大の電気計器製作所の一つである横河製作所は、こんどの展覧会に三〇〇余点の製品を出品したが、同製作所は出品数のもっとも多い企業で、またこの製作所がこれほど多数の製品を海外に出品したのは、こんどがはじめてである。

このような業界の熱心な支持と参加のもとに、こんどの展覧会は、成功裏に開くことができたが、しかし、日本という複雑な環境のなかで、その準備活動がなんの障害もうけなかったわけではない。


日本工業展覧会を参観中の北京市長彭真氏(右2)
および中日友好協会名誉会長郭沫若氏(左2)
日本工業展覧会を参観中の北京市長彭真氏(右2) および中日友好協会名誉会長郭沫若氏(左2)

日本のいくつかのメーカーが化学繊維の設備を提供しようとしているとき、アメリカ政府は人を派遣してこれらのメーカーと折衝させ、かれらに圧力をくわえて、設備の出品をおもいとどまらせようとした。しかし、これらのメーカーや商社は、中日貿易は日本が独立自主の立場に立っておこなうべきであると考えたので、太平洋の向こうからの干渉をはねのけ、他からの発注の製品の製造をおくらせても展覧会に出品する機械の製造をいそぎ、ついに北京の展覧会にまにあわせた。これらの設備は展覧館の中央ホールに展示されている。

もう一つの農業機械製作所もおなじような阻害をうけた。これは南朝鮮や台湾(クイワン)と取り引きがある製作所なのだが、企業側が展覧会に出品することを決定すると、アメリカはこの二つのカイライ政権の手先を通じ、契約の廃棄をもっておどかしてきた。しかし、日ましに繁栄する新中国と貿易をおこなうことに大きな前途があることを考えたこの製作所は、こうした理不尽な妨害をけってトラクターとキャタピラの部品を、期限通り日工展準備事務局へ送りとどけた。

このように、日本では内外のいくたの妨害があったにもかかわらず、どんな妨害も中日貿易を発展させようとする日本の広はんな工商業界の大勢をおしとどめることはできなかった。 

友好的な協力

中国の人たちは中日両国の友好と貿易の発展のために力をつくしておられる日本の人たちが、さまざまの困難を克服し、短い期間中にこのようにりっぱな展覧会を開催されたことに敬意を表し、日本の人たちは中国側の熱心な協力に心から感謝の意を表した。展覧団事務局長の押川氏もいわれるとおり、展覧会の成功は中国側の友好的な協力ときりはなして考えることはできない。

中国国際貿易促進委員会は中国の一五の大衆団体の援助を得て、この展覧会がうまく開催できるよう最善をつくした。輸送、陳列、据え付けなどは、いずれも中日両国の関係者の密接な協力のもとにおこなわれた。中国の労働者は日本側の人員が全部到着するまえに、日本側の責任者の指導のもとに、細心な態度で機械の荷造りを解き、すっかり据え付けの準備をととのえた。また、できる範囲内ですすんで一部の機械の据え付けをおこなった。

据え付けのさい、機械の部品のなかに口径のあわないものがあると、中国の労働者はすすんでそれを加工し、または代用品をさがしてとりつけた。あるとき構造の比較的複雑な捺染機の据え付けをおこなったが、この捺染機の製造を担当した工場の技術者がきていないため、係りの日本人技術者も頭をかかえていると、これを見た中国の技術労働者が謙虚に自分の考えをのべ、ついに双方の協力によって、この機械が正常に動くようになったということである。こんなわけで、一月余りのあいだに、予定より早く会場の準備を終えることができた。

たがいに協力してゆくなかで、中日両国の作業員の理解はいっそうふかまった。日本のある技術労働者は、自分たちはこれまでいろんな国へいったが、中国の労働者がしめしたような積極的で細心でまじめな態度というものは、あまりみたことがないといえば、中国の労働者の方では、日本の作業員がひじょうに仕事熱心で友好的であることをほめるありさまだった。かれらはたがいに励ましあい、いたわりあった。中国のある電気工の話では、かれらといっしょに仕事をしている中村好栄さんは本当に疲れを知らぬ人だということだ。毎日朝早く出勤して、夜はたいていおそくまで仕事をされる。九月二十二日中村さんの誕生日だったので、夜、数人の友人が、中村さんのホテルへたずねていったのだが、当の中村さんは夜中の一、二時に帰ってこられたということだった。このことは中国の労働者を深く感動させた。だが日本の友人たちも中国の労働者たちが少しも休もうとせず仕事にたいしてひじょうに積極的なことをたたえている。ある日本の友人の話では、「中国の労働者は本当に仕事熱心ですね。いつでも何かすることはないかといってこられる。中村さんは中国の電気工のかたに時々休んでいただくために、こっそりかくれてしまうことがあるんですよ」ということだった。日本の技術者と中国の労働者はいっしょになって機械を据え付けたが、通訳がいないと手まねや漢字を書いて意思の疎通をはかったし、もしも据え付けが計画どおりすすまない機械でもあると、だれも仕事場をはなれようとしなかった。中日友好のために働くことは、双方ともたいへんよろこばしいことだったからである。

中国国際貿易促進委員会主席南漢宸(ナンハンチエン)氏は、展覧会開催の前夜おこなわれた盛大な招待会の席上で、中日双方の作業員のこうした友好協力についてふれ、これは決して偶然のことではなく、たがいに隣あっている両国人民が友好をもとめ、貿易を発展させ、両国関係の正常化をねがう強い願望のあらわれであると語った。

12下一页
関連文章