抗日戦争勝利50周年
かいらい「満州国」の3人の日本人
川勝一義
昭和時代に日本は「民族協和」を旗印に中国の東北にかいらい「満州国」を樹立した。日本の敗戦に伴なって「満州国」も崩壊した。その「満州」を舞台にそれぞれの理想のため命を捧げた三人の日本人がいた。彼らの生がいをいま振り返ってみて、深い感慨を覚える。
切腹自殺の森崎湊
森崎湊は三重海軍航空隊の近くの香良洲海岸で切腹した。海軍予備学生、特攻隊を志願した青年だった。
九州大牟田の商業学校を卒業後、森崎湊は夢を抱いて「満州」の最高学府、「建国大学」に進んだ。彼は日記にこう記している。「ここにきてよかった。本当によかった。早く授業を受けたい。早く満州語(中国語)ができるようになって満系の同志と満州語で語りたい」。ところが「満州」の人たちと共に暮らすようになってわずか二カ月後、彼の抱いていた「大東亜共栄圏」の夢は砕け散った。昭和十七年九月二日の日記には次のように書かれている。
「満州国民もまた中国人であり、しかも祖国愛の強い連中であればあるほど、満州国人であるよりも『中国人』なのである。真にアジアのためになり、われらが陣営に迎え入れなければならぬ人材、われらの理想のために真に同志とすべき士は、悲しくも敵側にまわっているのである。彼らの抗日排日にも大いに敬服せざるを得ない」
森崎はついに「民族協和」や「王道楽土」の夢はスローガンにすぎないことを悟った。苦しい挫折と失望感を抱いて彼は学校を中退、日本に帰って海軍特攻隊に志願、参加した。敗戦後、彼は破れた夢を抱いて切腹を遂げたのである。
森崎の目に映った「満州国」は「日本人を君主とした各人種の雑居長屋」で、「建国神話」とはほど遠いものだった。理想国家を建設するのに熱い血を沸き上がらせ、奮発邁進した一人の青年の夢は、異民族が心を合わせて仲良くできないでいる現実の前でついにその輝きを失ってしまった。
森崎にとっては、自殺して大和魂を発揚するほかに道がなかったのだろう。
服毒自殺の岸谷一郎
熱河省承徳にあった省政府宿舎で妻と二人の息女と共に服毒心中を遂げた岸谷一郎(後に隆一郎と改名した)は当時熱河省次長(省長は「満州人」だったが実権は日本人次長の手に握られていた)で、四十五歳だった。
岸谷は明治三十四年(一九〇一年)に青森県黒石市のあるかじ屋の長男として生まれた。弘前中学校卒。大正九年(一九二〇年)、県に推薦されてハルビンの日露協会学校(後の「満州」国立大学ハルビン学院)に入学。同校卒業後、満鉄調査部ロシア語班に就職した。昭和七年「満州国」が成立したとき、黒竜江総務科長に任命され、昭和十三年通化省警務庁長に抜擢された。その後熱河省の次長になり、断固として「反満抗日勢力」鎮圧の第一線に立っていた。昭和二十年終戦のとき、ソ連軍が承徳に入城しようとした際、一家で青酸カリを飲んで自殺した。
彼の生がいの絶頂期は通化省警務庁長を務めていたころだった。「治安」の最高責任者として、抗日第一路軍の楊靖宇司令と対抗しながら、投降してきた中国人を「満州国」の特別警察討伐隊「一心隊」に編成した。
岸谷は同郷の柴田久次郎に次のように話したことがある。「もし日本がいまの満州のようになれば、君も僕も官憲に追われるひ賊にならざるを得ないだろう」
これは「理想国家」の建設のため「反満抗日勢力」と戦っていた人のことばとは想像しがたい。
しかし私は岸谷が「満州国」が人為的に作られた偽りの国家とは全然意識していなかったと思っている。
中国人と共に闘った福間一夫
森崎や岸谷とはまったく反対の立場にありながら同じく一命を失った日本人がいた。福間一夫である。
彼は自ら、進んで抗日聯軍に参加、中国人と肩を並べて二年間にわたり闘ったが、最後に「満州国」の討伐軍に撃ち殺された。抗日聯軍に参加したとき、彼は「戦争に反対する闘争は中国人と日本人を救う唯一の道だ」と言った。福間と戦友だった元抗日戦士の王雲聖さんを訪ねに私は一昨年ハルビンにいった。かつて抗日聯軍の後身、東北民主聯軍に三年間いた経歴を話すと、王さんはすぐ「同志(トンチー)」と呼んでくれた。実に驚いたが同時に何十年も前の青年時代に戻ったような親しみを覚えた。
きちんと片付けられた居間で私と王さんは腹を割って昔のことを話し始めた。
一九三八年六月二十四日の夜十一時、楊靖宇将軍の率いる抗日聯軍第一教導団が満鉄通輯線の土口子トンネル工事現場を襲って二百五十余人の労務者を解放した。その中に三十歳前後の背の低い日本人がいた。福間一夫だった。
福間一夫は東亜土木会社の職工だった。満鉄通輯線工事現場の監督になったが、中国人労働者に対する態度は他の監督と違って、殴ったり、ののしったりしたことはなかった。ほかの日本人監督がそばにいるときは、「なまけるな、早くやれ!」と叫ぶことはあったが、でなければ荒立つことはなかった。会社側がもっと労働生産性を上げよと指示したとき、彼はかえって会社側に「能率が上がらないのは賃金が安いからだ」といって待遇改善を要求した。中国人労働者には喜ばれたが、上司は腹を立てた。彼は監督を外され、中国人労働者と一緒に働かされた。それでも中国人労働者に対する気持ちは以前と少しも変わらなかった。
大勢の労働者と一緒に抗日聯軍に解放されたとき、抗日聯軍の幹部が彼の友好的な態度を知らされ、釈放しようとしたが彼は日本側へ戻る気がなく、抗日聯軍への参加を申し出た。
楊靖宇司令が「どうして抗日聯軍に参加するのか」とたずねると、彼は「日本が中国を侵略することが我慢ならないから」と答えた。慎重に考えた結果、楊靖宇司令は申し出を受け入れた。彼は教導団機関銃中隊第二小隊第一分隊に編入された。こうして東北抗日聯軍に唯一人の日本人兵士が生まれ、抗日戦士たちの士気を大いに奮い立たせた。
中国の兵士と比べて福間は年かさだから分隊の中では彼を名前でなく、番号の「八号」に敬称を付け「老八号」と呼んだ(当時秘密を保つため、抗日聯軍では兵士に番号を付け互いに番号で呼んでいた)。
ある日、雑談をしていたとき一人の若い兵士が福間にたずねた。
「老八号、日本に奥さんがおられますか」
「ああ、いるよ。子どもも二人ね」「あなたは日本人、どうしておれたちと一緒に日本人をやっつけるのですか」ともう一人が聞くと、「日本が中国を侵略することは許せない。だからみんなと一緒に日本のやり方に反対するんだ」
一九四〇年二月、楊靖宇司令は日満警察討伐隊に追跡を受け包囲されたが、投降の勧誘を断って、氷点下三〇度の濛江(モンジヤン)のほとりで倒れた。九カ月後の十一月、二年半にわたって中国、朝鮮の兵士と共に戦ってきた福間一夫も中国人同志を援護するために一命を捧げた。
日中戦争中に、中国の反戦運動に協力した日本人は何人もいた。たとえば元日本共産党の故野坂参三氏(延安の赤軍)と故鹿地亘氏(重慶の国民党軍)。ほかに八路軍の捕虜になり、直接八路軍に参加した日本兵もたくさんいた。しかし、「満州国」時代に抗日遊撃隊に参加して中国人と肩を並べて戦ったのはただ福間一夫一人だけである。
私はいま本を書いている。「満州国」時代に反満抗日闘争の中で肩を並べて闘った中国人と朝鮮人が、敵方の日本人と織り成した「裏面の葛藤と相克」の真相をその中で明らかにしようとしている。
私は資料を集めに何度も中国に出掛けた。戦争中に大活躍したいろいろな人物について知ることができたが、ここで取り上げた三人の日本人はとりわけ私に強烈な印象を残した。
ところで、当時、かの地に暮らしていた中国人たちはいったいどのように「満州国」を見ていたのだろうか。
そのころ中国の各地で『流亡三部曲』が広く歌われていた。その中の「松花江上」はやむを得ず故郷を離れた人びとの悲しみと憤りを歌っている。五十年を経たいまでも東北地方の人びとが愛唱している。こんな一節がある。
「九·一八」「九·一八」 あのやりきれない、つらい時から故郷を離れ、無限の富を捨てた。流浪!流浪!関内で、流浪の日々!何年、何月、あの愛すべき故郷に帰れるか。何年、何月、あの無限の富を取り戻せるか。父よ母よ、父よ母よ、再会はいつの日か。
これはまさに、中国東北地方の人びとが、犠牲にされ、屈辱をなめたとき、日本が一方的に描いた「満州国」の夢にぶつけた憤りの歌だろう。
寒気の緩んだ通化の街角。地元の農民が、日満警察が見せしめに吊り下げた楊靖宇の首を見あげて「楊司令はやせたな」とため息をついた。
村は毒ガスで全滅した
私たち取材団の車は北京を発ち、南へ真っすぐ河北省中部の華北平原に入った。この辺りは、華北でも最も豊かな地域の一つで、見渡す限りの大平原には川が縦横に流れ、肥沃な土地から小麦と綿が取れる。
面積約一八万平方キロ、五十ぐらいの県や市を含み、およそ一千万人の人口を擁する。華北平原は昔から軍事上の要衝として兵家が常に覇を争ってきた所で、五十余年前、ここは中国抗日戦争の重要な根拠地の一つだった。
地下道に眠る八百の遺体
私たちの車は、昨年できたばかりの北京―石家荘高速で、保定市、定州市を通過した後、田舎道に入り、正午きっかり、五十三年前大惨事の起きた北町(ベイテイン)村に着いた。
北町村は定州(テインチヨウ)市の東南二〇〇キロの所。二百戸余りの農家があり、戦後五十年間平和な環境の中で、村民たちはかつての廃墟の上にわが家を再建した。土で築かれていた家々はほとんどが二階建てのレンガ造りの建物に、狭かった道はトラクターやオートバイの走る広々とした道路に変わった。五十歳以下の人びとには、自分が立っている地の下に四通八達の地下道があり、その中で何百人もの人が無惨に殺されたことは想像もつかない。村のはずれに、一九四五年に建てられた烈士陵園があり、中央の一番大きな墓には五十体の遺体が埋葬されている。中国の軍事法廷がこの年、日本の戦犯を裁いたとき、犯行の証拠として、北町村の地下道から掘り出した、日本軍に毒ガスで殺害された人たちの遺体である。地下道は長く、多数の遺体が折り重なっているため全部は収容できず、他の何百人もの犠牲者はそのまま現場で永眠している。烈士陵園に立てられた石碑には、人びとの記憶に頼っての三百余人の犠牲者の名前が刻まれている。陵墓の案内人を勤める李徳祥(リートーシヤン)さんは、あの虐殺から好運にも生き残った一人で、七十四歳。戦後五十年間、ずっと陵園を守り、犠牲者の霊に付き添ってきた。
北町村の掃討作戦始まる
李徳祥さんは、高齢にもかかわらず、五十三年前のことを、昨日の出来事のように詳しく話してくれた。
四二年五月一日、岡村寧次北支方面軍司令官の指揮する日本侵略軍は、五万人の部隊と多数の戦車、飛行機を動員し、華北の抗日根拠地に対する大規模な掃討作戦を開始した。
日本軍は一地区を占領するとすぐに拠点を固めるという“蚕食作戦”を展開、定州の村と鎮には、多数のトーチカが出来ていた。ただ北町村だけが「自分を隠し、敵を打撃する」地下道を事前に掘ってあったため、数回にわたり日本軍の侵入を食い止めた。日本侵略軍は北町村への恨み骨髄に徹し、保定(パオテイン)駐とん軍司令官·上坂勝少将がこの目の上のたんこぶを取り除こうと決意し、自ら定州県城で北町村掃討作戦の指揮を取った。
五月二十七日の夜明け、上坂少将は三千人ぐらいの日本侵略軍と警備隊をもって北町村を包囲した。北町村の軍民は地形に詳しい強みを発揮し、手製の手りゅう弾と地雷で勇敢に抵抗し、何回も敵の攻撃を撃退したが、ついに衆寡敵せず、地下道に撤収しなければならなくなった。
北町村の地下道は巧みに造られていた。東西南北に通じ、高さ約一·七メートル、幅一メートル、三人が並んで歩ける広さだ。地下道の換気口もほとんどが引臼台の下とか、井戸や壁などにうまく隠して付けられている。家と家、部屋と部屋が地下道で結ばれ、通じ合っている。村民は、いったん地下道に入ればもう安全で、敵はお手上げだろうと決めていた。
毒ガスで非人道的な大虐殺
侵略者は、村民が地下道に潜ったときの対策も準備していた。彼らは手に手に毒ガス筒を持ち、あらかじめ探知した地下道路線沿いに入口を搜し出し、毒ガス筒に火をつけては地下道に投げ入れた。さらに燃え盛る薪を放り込んで入口にふとんを掛け、毒ガスと煙火を地下道の中に封じ込めた。毒ガスなどの使用を禁じた一九二五年のジュネーブ議定書に反する蛮行である。地下道内に満ちあふれた煙が漏れ出て来たため、さらに多くの入口が侵略軍にみつかり、また大量の毒ガスが投入された。犠牲者たちは初めとうがらしの強いにおい、火薬や甘いにおいをかいだ。やがて涙が流れ、くしゃみが出、鼻水が垂れ、最後に窒息した。その後の検証で分かったのだが、この時使われた毒ガスは窒息性、催涙性、くしゃみ性の三種類だった。
地下道にいた人びとはすぐ大混乱に陥り、あちこちの出口からはい出ようとした。毒ガスはますます濃くなった。日本侵略者をののしる声、苦しみうめく声が響き渡った。やがて、声は次第に弱まり、聞えるのはあえぐ息、壁を引っかく音、もがく声だけになり、人びとは次々と息絶えた。李徳祥さんの脳裏には、目を覆いたくなるような惨状が焼き付いている。頭を土の中にねじ込むようにして死んだ人、服を引き裂き、壁に頭を打ちつけて死んだ人、赤ちゃんを抱いて、顔中涙でぐしゃぐしゃになり、吐き続けながら死んだ母親がいた。李さんの目の前で、王牛児(ワンニユアル)という男が、十歳の長男と八歳の二男にひざ枕を貸したまま死んだ。死ぬ前に子が母親を呼んだが、父は「もう、いい。母さんはどこかで死んでしまっただろう。おれたちはいっしょに死のう」と言った。李菊(リーチユー)という老婦人は仰向いたまま死んだ。両腕には十歳前後の二人の女の子を抱いていた。
虐殺された人びとの大多数は老人、婦人と子供だ。若い男性たちはもがいて出口へ逃れようとしたが、毒ガスに倒れた人々が折れ重なり、通路が塞がれたため通れなくなった。やっとすき間をたどって出口に出た者は、待ち受けていた侵略軍に殺された。死を免れた人もいたが、とらえられて厳しく監禁された。
五月二十八日、日本侵略者は引き続き地下道から逃れ出た村民たちを惨殺した。北町村の大虐殺は二日間にわたり、八百余人が受難し、村の八〇パーセントの世帯の人が全員殺されてしまった。李徳祥さん一家八人の内、生残ったのは彼一人だけだった。
生き残った李徳祥さん
李徳祥さんは最後に地下道に入った人で、出口に近いところにいたため、意識が薄れたときに地下道から引き出された。風に吹かれているうちに意識が戻ると、ひどいのどの渇きを覚え、目に入った水おけの方へはっていった。そのそばにいた一人の日本兵が水おけをけり飛ばした。李さんは小さいときに父に付いて瀋陽(シエンヤン)で働いたことがある。そのとき、日本語を少し習った。そこで、その日本兵に、「のどが渇き、水を飲みたい」と日本語で話しかけた。日本語が話せると分かって日本兵は、水を飲ませてくれた。日本語をどこで習ったかと聞かれた李さんは、父とともに瀋陽で満鉄病院の建設に参加したこと、自分はただの農民であることを告げた。日本兵は同情を寄せ、李さんを殺さなかった。
夕方前に、侵略軍は中国共産党の指導する八路軍と一般民衆百人余りを三軒の民家に閉じ込めた。日本軍の信頼を得た李徳祥さんは、その人たちに水を配るとき、趙樹光(チヤオシユクアン)抗日県大隊長らもとらえられたことを知り、彼の前に水の入ったおけを置いた。趙隊長は水をみんなに飲ませず、服をぬらし、土壁を湿めらせて穴を空け、脱走を企てた。李徳祥さんはまず、日本兵のために鶏の料理をつくる機会を利用して、その壁の前にあったたきぎの山を移した。しばらくして、屋上の番兵が移動したすきを見て、趙隊長に知らせた。部屋にいた人びとは趙さんに従って穴から脱出、北に向かって逃亡。李徳祥さんもいっしょに逃げてしまった。
残ったその他の若い人たちは、労務者として中国東北の錦州(チンチヨウ)、撫順(フーシユン)と北海道に送られ、終戦まで苦役を強いられた。いま生き残っている北町村の人はもう少なくなったが、みな地元のほか、河北省の省都·石家荘や北京で重要な仕事に従事している。それでも、彼らは清明節(チンミンチエ)(四月四日~六日の間)になると、必ず北町村の烈士陵園に集まり、受難者たちの墓参りをする。
指揮官に十八年の懲役刑
一九五六年九月、中華人民共和国特別軍事法廷が瀋陽で開廷、李徳祥さんは証人として出廷した。法廷で、李さんは大虐殺を指揮した上坂勝少将と対面、涙ながらに日本侵略軍が北町村で犯した罪行を訴えた。
上坂勝は、その場で李さんの前にひざまずき、「証言はすべて真実です。私は毒ガスで北町村村民を地下道で殺せと命令しました。いまから見れば、まったく非人道的な行為でした。それに比べて、中国人民は罪行重なる戦犯の私をとても人道的に遇してくれました。ちょっとした病気でも、よく治療してくれましたし、食べ物と衣服は中国人よりもよいものを与えてくれています。中国人の慈しみ深さと気だてのよさを身にしみて感じました。どんなに厳しい判決でも心から受けます」と罪を認めた。軍事法廷は上坂勝に十八年の懲役刑を言い渡した。当時上坂はまだ五十三歳、服役後祖国に戻り、余生を送ることが許された。
李徳祥さんはいまでは幸せに暮らしている。十数人の家族があり、息子や娘たちはみな立派に成人し、それぞれ工場長、大学の講師、婦人科の医者である。祝祭日になると、みな郷里、北町村の李さんの所に帰り、一家が顔をそろえる。李さんは楽しい晩年を過している。
一度死んだ北町村は再び活気を取り戻した。人びとは改めて家族をつくり、家を建て直した。五十年前、侵略者との闘いで多くの人びとが犠牲となった土地で野菜や果物が実り、一人当たりの年収は千七百元に達し、どの家も安定した楽しい日々を送っている。
北町村の歴史は、戦争と平和の功罪を力強く物語っている。
(本誌·南英)
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