抗日戦争勝利50周年
「小難民」の記憶は今も
趙大年
占領下の北平を脱出
「七七」事変の勃発を告げた盧溝橋の砲声は、今も私の記憶に新しい。宋哲元将軍率いる第二十九路軍の果敢な抗戦から、中華民族の抗日戦争の歴史的一ページが始まった。このときから私は、一人の小学生の目で侵略戦争を見続け、無邪気な少年の心で民族の苦難と覚醒に感動し、それらを肝に銘じてきたのだ。
私の家は、北京(当時は北平といった)西城小沙果胡同の四合院の中にあった。大人たちは、帯状に切ったハトロン紙を窓ガラスに貼り、砲弾を受けても破片が飛び散らないようにした。真夏でも綿の門簾(メンリエン)をつるしたのも、弾除けのためだった。だがそれ以外に自らを守る手だては何も講じなかった。
ある夜更け、私は、抗日戦に参加するため南方に行く父の口づけで目を覚まされた。彼は「いい子だからな、お母さんの言うことをよく聞くんだよ」とだけ言い、よく寝入っている弟にも口づけした。母は、私が起き上がろうとするのを止め、足音を忍ばせて父を送りに行った。
やがて北平が陥落し、日本兵が入城してきた。学校の門に日本の国旗がかかげられ、校門を出入りするたびにおじぎをさせられた。まもなく数人の日本人教師と一群の日本人の生徒が入ってきて、日本語の授業が増えた。中国人の子どもも一年生から必修になった。
第三十八小学の校長だった母は、こうした事態にたいそう腹を立て、きっぱり辞職してしまった。母は目に涙をためて私に言った。「もう学校に行かなくていい。お勉強は家でお母さんがみてあげるから」
私の家は家族が少なく、四合院の一棟に住んでいた。父が南方に行ったあと、母方のおじが河北省の農村から北平に逃げてきて、いっしょに住むようになった。「日本兵は農村で放火、殺人、略奪など悪事の限りを尽くしている。若い女を農家の前庭から連行し、衣服をはぎ、衆人の前で輪姦し、農村はもうこの世の地獄だ」とおじは言った。
それに比べれば北平の市内はまだおとなしい方だった。日本の侵略者たちは違った一面を装い、「日中親善、同文同種」などと説いて、奴隷化教育と文化侵略を進めたのだ。
一九三八年春、おじは私たちを天津のイギリス租界に連れて行った。これが私たちにとって初めての被占領地区からの脱出だった。まもなく母は、私と弟を連れて国営汽船局の船に乗り、青島、上海、廈門(アモイ)、汕頭(スワトウ)を経由して香港に着いた。母は船内でずっと私たちを奮い立たせ、『義勇軍行進曲』をみなさんに歌ってあげなさいと私に言った。港に着くと必ず街を見に連れて行き、その土地の物産を教え、「中国はこんなに広くて物が豊かなんだから、絶対に滅びはしないよ」と言った。
空襲で各地を転々
大学教授の父は、この時期すでに抗日活動に参加し、張治中将軍が校長をつとめる長沙の抗日幹部学校の教育課長をしていた。父はようやく香港にやってきて、私たちを広州に連れて行ったが、そこで大空襲に遭った。私たちが泊まっていた愛群旅館(今の人民大廈)は、広州で一番高い十三階建てのホテルで、アメリカの星条旗をかかげていたので、日本侵略軍の飛行機も爆撃を控えた。だが、このとき初めて私は空襲の惨禍を見た。飛んで来た敵機は低空からほしいままに次々と爆弾を落とし、民家から立ちのぼる濃い煙は太陽を覆った。老人や子どもをかかえた群衆が愛群旅館の回りを逃げまどっていた。
私たちは急いで広州を離れ、長沙にやってきた。まもなく大人たちの話で、十月に武漢と広州が相次いで陥落し、長沙が抗戦の中心都市になったことを知った。
しかし国民党は長沙で焦土作戦を発動し、母は私と弟を連れて桂林に逃げた。公職についていた父は、学校とともに湖南省西部の山間部に撤退した。漓江の澄明な水や奇岩つらなる峰々も、すばらしい鳳凰竹や色鮮やかな夾竹桃も、難民の目には少しも美しくなかった。敵機は絶え間なく襲い、私たちは毎日警報を聞いて七星岩の洞窟に退避した。この山の鍾乳洞は非常に大きく、今ではたくさんの観光客が訪れる有名な観光地になっているが、当時は避難民があふれ、担架に運ばれた病人や死者が私たちの頭上を行き来した。千姿万態の鍾乳石も、私たちの目には同胞の白骨の山のように映った。
敵の激しい空襲のため桂林にもいられなくなり、母は私たち兄弟を連れてこんどは貴陽にやってきた。逃避に明け暮れる難民の日々。母がどのような艱難に耐えたか、私は今もはっきり覚えている。日本侵略軍はこの貴陽も空襲し、そのうちの「貴陽大空襲」と呼ばれる惨事に私たちも遭遇した。冷酷残忍なファシストたちは、華北で「死の町」を作り出し、東北では細菌の人体実験を、南京では大虐殺を行っただけでなく、後方の都市の庶民にまで残虐極まる無差別爆撃を加えた。この大空襲に出動した数十機は、貴陽市中心の人口の密集した商業地区を、血肉の飛散する廃墟に焼き尽くしたのだ。私はまだ八歳の少年だったが、わが目で見たあの惨状は、骨身に刻んで永遠に忘れることがないだろう。
一九四〇年、私たち一家四人は湖南省耒陽(らいよう)県の小水舗という鎮でいっしょになることができた。鎮に精忠小学という学校があり、たくさんの教師が北方から、そして大火後の長沙から来ていた。日本侵略軍は兵力不足のため長沙を占領していなかったが、湖南省政府はそれでも耒陽に移っていた。県城は非常に小さかったが、たくさんの役所ができ、学校は農村の方に置かれた。精忠という校名は「精忠報国」からとったもので、講堂のしっくい塗りの壁には岳飛の「我が山河を還せ」という題字が書かれていた。鎮にはまた、「徹底抗戦」とか「好い鉄こそが釘となる、好い男こそが兵となる」といったスローガンがかかげられ、一致して外敵に当たろうという意気がみなぎっていた。
太平洋戦争が始まって後、ここも空襲を一度受けた。日本の飛行機はアメリカ空軍の迎撃に遭った。当てもなく爆弾を落とし、算を乱して逃げて行くうちに一機が銃撃を受け、小水舗付近に墜落した。私たちはわが目でその一部始終を見て、言いようのない高揚した気分を味わった。
撃墜された日本機は燃えていなかった。だれもそれを残念がり、壊しにかかった。そして実際に壊れたのだ。飛行機というものは大体金属でできているものなのに、この飛行機は外側がベニヤ板で、ペンキで銀色に塗ったナイロンの布を張っていた。家に帰って父からいろいろ教えてもらった。父はこう語った。「撃墜したのは同盟国アメリカの“フライング·タイガー隊”だ。日本機のベニヤ板やナイロンから日本の国力の衰えがわかる、われわれの抗戦勝利の日もすぐやって来るぞ!」
戦後の一九五〇年、人民解放軍にいるときにある日本籍軍医から聞いた話だが、一九四三年秋以降、東京の商店の陳列棚は空っぽになってしまい、市民は飢餓状態に陥った。怪しげなコーヒーにありつくために、大通りに行列ができた。そのコーヒーは小豆をほんの少し炒めて煮出した湯にサッカリンを入れたもので、栄養など全くなく、それでも一人に一杯しか売ってくれなかったので、二杯目を飲むためにまた行列に並ぶ者もいた、という。侵略戦争は、日本人民にも苦痛と災厄を与えていたのだ。
百万人の湘桂大撤退
一九四四年初夏、日本侵略軍は湖南、広西に狂気のように攻め入り、長沙、株州、衡陽、耒陽が相次いで失われた。だが、戦局はすっかり変わっていた。真珠湾事件から立ち直ったアメリカ軍は、日本軍の太平洋ルートを切断し、まさに日本本土に進攻しようとしていた。東南アジアとインドを占領していた日本軍は、本土との連絡を断たれたため、中国大陸奥地の湘桂鉄道と黔桂鉄道を打通し、また貴陽、昆明経由でビルマに至るルートを開こうと妄想した。それは、死に瀕した日本帝国主義の狂気のあがきではあったが、戦争と難民移動の歴史にかつてない大規模かつ悲壮な「湘桂大撤退」を余儀なくさせた。老人や子どもを助けながら背に荷物を負った百万もの人びとが、広東、河南、湖南、広西から、湘桂および黔桂鉄道に沿って、はるか雲南、貴州、四川の「大後方」へのろのろと移動して行ったのだ。
このとき私たち一家も全員が避難した。当時、黔桂鉄道はまだ貴州省独山までしか通じていなかった。それに、被占領地区の外に撤退させることのできた車両は、残されたわずか四〇〇キロの線路を塞いだので、柳州駅の操車場には車両があふれ、まるでカニのように互いに足をからませあい、さすが優秀な司令員もなすすべがなかった。
柳州は悲惨な難民の町と化し、ぼろぼろになった彼らのテントが道路を塞いだ上、市街地の外にもあふれ出した。難民の数は地元民をはるかに上回った。役所の官吏たちはすでに消え、警察もない、バスもない、電気水道も止まり、地を覆う餓死者を埋葬する者もなく、イヌどもは血走った目で獲物をあさり、カラスは空を覆い、カやハエがはびこり、疫病が流行し……一九四四年の夏から秋にかけて私が見た柳州は、まさに死の町であり腐臭の町であった。
このころ、日本侵略軍は柳州を空襲することができなかった。父の話によれば、アメリカのシェンノート将軍が率いる飛行隊の基地が柳州郊外にあったという。私たちは毎日、彼らのムスタング戦闘機が朝早く基地から飛び立ち、北方の日本侵略軍を空襲して帰ってくるのを見かけたものだ。
柳州は、難民の離合集散の町でもあった。歩くことのできる難民は少しずつ柳州を離れ、黔桂鉄道や国道沿いに「大後方」目指してのろのろと撤退して行った。歩けない者は自発的に集まり、汽車の燃料にする薪を山から採ってきた(駅にはもう石炭がなかったのだ)。桂林方面から新しくやって来た難民は、ぼろぼろのアンペラ小屋を作り、今までの難民の悲惨な生活を繰り返した。
私たちが乗った「毛虫列車」は、薪を燃やし、息を切らせ足をふらつかせながら、ついに柳州を出発した。車両の屋根の上まで難民があふれ、窓の外には柳編みの籠が二、三個つるされ、中に子どもが入っていた。車両の床下にはベッド用の板とか戸板、黒板がくくりつけられ、そこに人が横たわっていた。遠くから見れば、それは、のろのろとうごめく毛虫のようだっただろう。
「毛虫列車」は、進んでは止まり、止まっては進み、冬になってようやく六甲という小駅に着いた。だが線路には列車があふれ、どれも動くことができない状態にあった。指折り数えてみると、柳州を出て三カ月が過ぎていたが、わずか二〇〇キロしか進んでいなかった。
百万を数えた「湘桂大撤退」の難民の中には、教師、教授、俳優、作家、記者、医師、有名文化人、小役人、小商人、労働者、農民など、いろいろな人がいた。原隊から離れた兵隊やゲリラの勇士もいた。あらゆる職業、あらゆる身分の人が、全部いた。ほとんどが家族連れで、年寄りや幼子を抱えていた。指導者はおらず、組織もなかったが、彼らはすべて堅忍不抜の愛国者だった。中国は決して滅びない!われわれは決して亡国の民とならず、日本侵略軍の残虐非道に帰順しない!―それがわれわれに共通した信念だった。東北や華北の被占領地区から幾多の艱難辛苦をへてこの西南にたどり着いた人もたくさんいた。日本侵略軍の先頭部隊が近くの国道までやってきたというので、もう走ることのできない列車を捨て、鉄道を離れて山に入り、貴陽に向かった。
意気盛んなこの難民の長竜は、不撓不屈の人びとの流れだった。死すとも亡国の民とはならぬという生命の流れだった。四十年後、私は中国の作家の良心をもって、一九四四年の自らの体験や見聞を『大撤退』と題した長編小説に書き上げた。それは、百万難民同胞の生者死者への記念碑であり、若い読者への贈り物でもある。中華民族の偉大な抗日戦争には、正面および後方の戦場のほかに、語られることのなかった悲惨極まる「湘桂大撤退」もあったのだ。
われわれは、その重い歴史の一ページを決して忘れないだろう。
一九四五年春、徒歩で貴陽まで来た私たち一家は、みな病気に倒れてしまった。そして病院の中で、日本鬼子(リーベンクイズ)が独山まで来たものの、この雲貴高原の一角で弾薬食糧が尽き、進退極まったままでファシスト侵略戦争の末日の到来をひたすら待っているという話を聞いた。
苦難の少年時代と激動の青年時代によって、私はいっそう平和の尊さを痛感するようになった。歴史は、私にとって厳粛な教師であった。
(筆者は作家、北京作家協会会員)
庶民が見た日本
中国の庶民は日本の中国侵略をどうとらえ、現在の日本人と中日関係をどう見ているか。最近北京と南京の町中で取材したいろいろな世代の率直な感想と提言を生の声で紹介しよう。
北京
△北海公園につながる市民の憩いの場、什刹海公園では、朝早くから、小鳥自満、剣舞、魚釣り、気功、トランプ、将棋、京劇の稽古など、古都·北京のさまざまな風景が目の前に展開されている。
一、鳥籠を吊したアカシアの下でご自慢の鳴き声に聞きほれていた温立桐さん(七十六歳)は次のように語った。
「いやな思い出だけだ。七·七事変の時、ちょうど北京に居たよ。日本軍が盧溝橋を攻撃して来たんだが、砲撃と飛行機の爆撃で死者がすごかった。一生忘れられないよ」
二、美声で京劇を歌っていた一人の中年男性、王さん。首都鉄鋼公司勤務である。
「今年は抗日戦争と世界反ファシスト戦争勝利五十周年です。ご感想は……」
「第二次大戦には数十カ国が巻き込まれたが、わが国だけでも、死傷者三五〇〇万人、経済損失五〇〇〇億ドルだった。あの戦争が人類に与えた災難は本当にひどいものだった。二度とご免だね」
三、トランプを楽しんでいる十数人のお年寄りたちに割り込んだ。
張克儒さん(六十二歳)。「日本人が北京に侵入した時、私はまだ学生だったが、その時は、みんな本を二冊持っていた。一つは日本語の本で、もう一つは国語の本。日本人が来ると日本語の本を読み、姿が見えなくなるとすぐ国語に変えた」
「その頃の日本人の支配は厳しかった。みんなこわくて外出する勇気もなかったよ」
「日本人にあっておじぎをしないと、すぐ殴られたのよ」
記者が話題を変えた。
「今の日本人はもう謝っているようですね。村山首相は訪中の時、盧溝橋を見に行って反省の言葉を述べ、永遠の平和を誓ったようですよ」「そうらしいね。村山さんは歴史を直視し、日中友好を主張している人なんだ。でも、そうじゃない人もいるんじゃないか」
「日本の議員には、中国侵略の歴史を認めない人がいるよ。中国を救うために来てやったんだなんて、とんでもない話だ」
「日本には良い人もやっぱり多いんだ。金を貸してくれるし、貿易もなあ」
△天安門広場。ここは観光客で一杯である。
一、昼前、人民英雄記念碑の近くで上海から観光に来ていた子供づれの夫婦に取材した。
「上海は国際都市で、商売や工場建設、観光に行く日本人も多いでしょう。日本人をどう思いますか」
「じかに接触したことはないが、仕事ぶりは機転が利き、規律正しく、なんでも真剣にやるという感じ。上海には日本人が多くて、事務所の人だの合弁企業の人だのいろいろいるし、街中で見わけることは全然できないんだよ」
二、モダンな身なりをして写真を撮っている若い男女。広州からの新婚旅行だという。
「日本は進んでいるし、商売が上手だね」
「日本の家庭用電気器具はすばらしい。結婚のため買ったコンポ、カラーテレビはみんなメード·イン·ジャパンよ」
△抗日戦争記念館で、外文局の劉東さん(四十三歳)は、村山首相の見学とその談話について次のように語った。
「村山さんは盧溝橋を訪れた最初の日本の首相です。その歴史を直視する勇気と平和を祈る誠意は中国人に深い印象を与えました。でも、彼が国会で受けている反対圧力も大きいそうですね」
「確かに、日本には侵略戦争を否定する人もいるようですね。最近、右翼団体が集めた『不戦決議』反対の署名は四百五十万人に達したと聞いているんですよ」
「驚きました。歴史を正しく直視できなくて、侵略された国々の民族感情を無視する日本人がそんなに多くては、アジアの平和も心配ですね。相手の態度が正しければ、古い問題は誰もむしかえしたくはありません。昔、私がフランス人の友人を円明園へ案内したのですが、その友人が焼き払われた廃墟を見て、誰がこんなことをしたのかと憤慨してるのです。それは十九世紀イギリス、フランス連合軍の仕業だというと、彼は真剣に、『われわれの先祖を恥ずかしく思う、私はここで中国人に謝罪する』と言うのです。私は深くうたれました。フランス人とは本当に親しくできると思います。そのように先祖の罪を承認する勇気がある民族は、きっと平和を熱愛する民族なんだと私は思います。ドイツ人の戦争に対する反省も好感を持たれてますよ。日本人ももっと謙虚になるべきです」
△午後、北京展覧館の広場。歓談している大学生、子供をつれて遊んでいる夫婦の姿が見られる。
一、東方財政経済日本語大学の学生、銭雲(女、二十歳)と施宏銘(男、二十一歳)。
「日本語ができますか」
「習い始めたところです」
「日本に留学したいですか」
「もちろんです。ただ、大分先のことですが」
「日本人がすきですか」
「われわれの世代は、日本と日本人にそれほど悪い印象を持っていないんです。日本の教育も、経済も非常に進んでいるし、経営管理も科学的で、学ぶところはたくさんあります」
「日本がわが国を侵略して、山ほど悪いことをして行ったことは知っているけど、先輩たちのような実感はないし、苦痛を感じるほどではありません」
邵暁波、三十三歳、中国機械設備輸出入公司の幹部。
「私は貿易会社に勤めているので日本人相手に仕事をしたこともあります。彼らはすこぶる利口で、わが国にはそれほど友好的じゃない。第一金もうけしか考えていない。もちろん、良い人もいるけど、あんまり多くはない」
△首都師範大学。中文学部の学生·孟憲剛(二十三歳)。
「中国侵略という点では、日本政府は罪を認め、深く反省しなければいけません。口先だけでなく、心から前非を悔い改めるべきです。村山首相が訪中に当って、盧溝橋の抗日戦争記念館を見学したという事実は評価できるが、今の日本では、右派の勢力がまだまだ強く、軍国主義復活の可能性が全くないとは言えない。事あるごとに、彼らは騒ぎたてるから、こうした問題を解決しなければ、日本のイメージは決して良くならないでしょう。本音を言うと、われわれの日本に対する見方は昔のままであまり変わっていません。これを変えるには、まず日本が自分自身を正しく認識し、歴史上の誤りを正確に評価しなければいけないのです。でなかったら、中国人は決して許しません」
南京
南京は長江の河口に近く、北京からは汽車で十八時間である。
△市の中心に当る鶏鳴寺付近は、市役所があるため人通りが多い。ちょうど学校の下校時だったので、可愛い生徒たちの姿が目についた。
一、中学生二人、ともに南京の第十三中学校一年七組の生徒で、十四歳と十三歳だ。
「日本を知っている?」
「知ってます。私たちが隣国としている国です」
「日本は島国で小さい。よく地震の起こる国です」
「日本のアニメをたくさん知ってる。『一休』『鉄腕アトム』『花の子ルンルン』全部見ました。とてもおもしろい。テレビドラマ『サインはV』も見ました。ヒロインの小鹿純子さんが好きです」
二、中学生二人と話していると、一人の娘さんが自転車を押して通りかかったので、早速マイクを向けた。程英(二十歳)。高校を卒業して現在は補習班に通い、大学受験の準備をしている。話が日本人のことに及ぶと、機関銃のようにしゃべり出した。
「日本人は勤勉で、集団意識が強く礼儀ただしいと思う。私は彼らを評価しています。ただ日本人は私たち中国人を見下していますね。だけど何も偉そぶることはないのよ。昔はみんな中国から教えてもらったんでしょう。世界最大の文明国だった唐の時代に、日本はまだ未開国だったのよ。確かにその後一時は中国が遅れたけど、またわが国が強くなって、唐の時代のように世界のリーダーになる可能性だってあるんじゃない?」
三、やや離れた所に、新聞を読んでいる若者がいた。背広と革靴という身なりから見てビジネスマンだろうと見当をつけて声をかけた。突然話しかけられて彼はちょっとびっくりした様子だったが、すぐ取材に応じてくれた。
陳連松(二十八歳)、上海のある貿易会社の南京事務所長で、話は中日貿易に及んだ。
「日本人は抜け目がない。世界でも有名です。彼らと取引きするのは容易じゃないよ。日本はいま、私たちとは主に安い労働力を当てにした合作をやっていて、ハイテクの合作は少ない。南京では、むしろ台湾との合作が多いですね」
△ホテルで夕食後、部屋の電話を修理に来た柳運祥さんと話した。
「私たちの家は南京城の西側の挹(イ)江門近くにあったのだが、日本軍が南京に侵入する時、付近一帯に火をつけて、あたり一面を廃墟にしてしまったよ。親父(おやじ)はいまでも悔しがっている。昔から南京に住んでいた年寄りは、いまでも日本軍を恨んでるよ。若い者は日本の技術を崇拝しているが、それでも日本人にはあまりいい印象は持っていないよ。五十年たったけど、あの悲惨な歴史がみんなの心の中から消えてないんだ」
△翌日、南京大学を訪ねた。ここは中国中部を代表する最高学府で、在学生一万人以上。若者のあこがれの的である。数学科のビルの中で、華菁(二十歳)、王聖友(二十一歳)ら数人の学生に取材した。
「日本人の最大の弱点は、過ちを認めないだけでなく、他人に罪を着せようとしていることだ。数百万人の軍隊を派遣して戦争を挑発しながら侵略だと認めず、南京の大虐殺を否定する人さえいるんだから、彼らはとても愚かだと私は思うよ。戦争責任について言えば、ドイツ人の方がはるかに素直だ。彼らはナチスの暴行を認める勇気があり、教科書にまで書いて子孫を戒めているが、日本人はなるべく教科書から消してしまおうとしている。えらい違いだよ」「日本にも歴史を直視し、平和と日中友好のために努力している人は沢山います。例えば日中友好協会の平山郁夫さんは、五月二十四日二百人の代表団を率いて、南京城壁の修復に参加しましたね。これは一例ですが、先生の努力には感心しています」
「日本はね、何としても自国の若者に正しい歴史を教えるべきですよ。過去を忘れずに今後の戒めとすることができれば、中日友好は確実に発展して行きますよ」
△南京城の西にある「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館」に足をのばした。むかしこの付近一帯は低地であり、南京攻略の時に、日本軍がここで一万人近い中国人を殺し、そのまま埋めてしまったので「万人坑(万人の穴)」となっていた。一九八五年、この史実を忘れぬよう、ここに記念館を建てた。
この記念館には参観者の絶えることがない。ただ何時来てもここでは沈うつになる。
館内で、南京、蘇州、揚州、徐州の各師範大学(学院)の元学長と出会った。みんな定年退職したばかりで、一緒に見学に来たのだという。
彼らの語る日本の印象は次の通りである。
「日本は経済大国から政治大国に、アジアの盟主、そして国連の常任理事国になりたがっているようだが、日本の常任理事国入りを支持する国は、アジアではモンゴルだけで、東南アジアの国々はどこも支持しないそうですよ。その理由は、日本が過去の過ちに関して曖昧な態度をとっているからだと思いますね」(元南京師範大学学長)
記念館で大勢の学生達と話をしたが、彼らはみな日本軍の罪悪をひどく恨んではいるが、それを直ちに現在の日本人と結びつけてはいないという印象を受けた。次は小学生の潘程(女、九歳)の意見である。
「以前彼らはわが国を侵略して人を殺した。これはとても悪いことです。でもいまは、彼らも過ちを認め、私たちと仲よくするようになりました。だから彼らを歓迎します。私も日本の子供たちと友達になりたいです」
中日関係の将来は、この小学生の発言が示唆しているように思う。明らかに、日本軍侵略についての受けとめ方には世代による違いが生まれつつあり、いわゆる時間の経過による風化も始まっているようだ。しかしそれをよいことに、事実を事実として直視せず、過去という闇の中に葬り去ってしまうこともまた許される状況ではない。いたずらにこうした不安定な関係を長引かせるのは、新時代を開こうとする両国人民にとって不幸なことだという気がしてならない。(本誌 鍾煒)
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