抗日戦争勝利50周年
「相逢一笑泯恩仇」
―魯迅の詩に「相逢いて一笑すれば恩仇を泯(ほろ)ぼす」という一句がありますが、二つの民族は幾多の苦難の末に早く和解したいと希望しました。ですが戦後の中日関係は必ずしも順調に発展したわけではなく、今日の友好的状況は容易には達成されませんでした。
張 戦後の中日関係の発展は、一九七二年の国交正常化以前とそれ以後の二つの時期に分けられる。七二年以前の中国は、中日の親善関係の回復と発展を対外政策の重要課題とし、中日関係の正常化は両国人民のためだけでなくアジアおよび世界の平和と安定にも役立つと認識していた。だが日本の一群の指導者は、アメリカの圧力のもとで中国を敵視する政策をとった。従ってこの期間は政府間ルートがなく、民間外交に頼るしかなかった。民が官を促し、中日関係の正常化を推進したわけだ。七二年の両国関係正常化で「官民挙って」ということになり、政府と人民が共同で努力し、中日関係はいい方向に発展した。いくつかの波乱曲折もありはしたが、全体としては良好で、友好という精神が時代の強い流れとなっています。
孫 戦後の世界冷戦構造の中で、両国政府の認識には確かに違いがあった。片や社会主義陣営、片や資本主義陣営と国家体制が違い、互いに警戒しあった。当時の日本政府はアメリカに追随し、新中国を敵視し、両国人民の往来を極端に制限した。日本人は中国に行ったら「洗脳」されるんじゃないかと恐れ、中国人は日本に行ったら「転覆」させられるんじゃないかと恐れた。(笑い)
林 民間外交の時代にも、先見の明を持った日本の友人が少なからずいて、心理的な溝を埋めて日中友好の橋渡しをされました。
孫 一九五二年春、帆足計、高良とみ、宮腰喜助さんらが北京に来られ、最初の民間貿易協定に署名された。同年十月には中村翫右衛門さん、亀田東伍さんらが、政府がビザを発行しないので漁船に乗ってアジア太平洋地域平和会議出席のため訪問され、大きな感動を与えてくれました。
五三年以後、中国は日本人居留者を、日本は中国の殉難者の遺骨をそれぞれ送り返し、双方の理解と感情が深まって行った。やがて国会議員も来るようになった。その中には中曽根康弘、園田直、黒田寿男さんなどがおられた。茅誠司さん、安倍能成さんら知識人も来られた。日本の歌舞伎の代表団が来ると、こちらも京劇の梅蘭芳さんを送った。とくに片山哲元首相が来られて第一回民間文化交流協定に調印された後は、各方面の交流が盛んになった。両国の商品見本市が、双方の首都や大都市で開催されました。
符 今でも忘れられないのは、そういうとき日の丸をかかげなければならなかったことですね。中国の民衆の間にはまだ怨念が残っていて、なかなか理解してくれないので、われわれもずいぶん緊張した。周総理もいろいろ協力してくださったし、毛主席も見に来られて、中日関係が大きく前進しました。当然のことながら、逆流も何度かあった。例えば一九五八年、あの長崎国旗事件が起こり、両国関係が一気に冷え込んだ……
張 「実事求是」(事実によって真理を探究する)の精神から考えると、当時われわれがとったいくつかの対抗策も過剰だったな。幸い周総理の計らいで「特殊物資」として漆と甘栗の貿易は継続され、すべての貿易が中断した中で一筋の道だけは残した。そういう低調な時期にも有識者は努力し続けた。
石橋湛山元首相は北京で周総理に会われ、松村謙三さんは「積み上げ方式」の提唱によって、日中関係の正常化への方策を着々と追求され、周総理から称賛された。高碕達之助さんは二十二社の代表を率いて訪中され、廖承志さんと「覚書」に調印された。これによって双方は事務所を開設し、両国関係はまたゆっくりと前進を始めることになる。
駱 アメリカのキッシンジャー、ニクソン訪中は、日本に大変なショックを与え、民間外交はさらに活発になりますね。当時私は「ピンポン外交」の成り行きや、王暁雲旋風、孫平化旋風に大きな関心を持っていました。それでわかったんですが、それらの「旋風」が文字通り黒雲を吹き飛ばし、中日友好という「青空」を呼び寄せたんですね。(笑い)
孫 ついに中日国交正常化が実現し、田中首相、大平外相らが北京に来て調印式が行われた。私は張香山さん、符浩さんとその仕事にタッチしたんですが、周総理が民間外交の功績を何度も強調され、「水を飲むとき、井戸を掘った人のことを忘れてはならない」と言われました。
国交正常化後の中日関係は、まさに「スピードウエー」をひた走りの感があった。友好の船は頻繁に往来し、友好都市の締結は現在百四十九組にも上っています。正常化の五年後、苦労の末に中日友好条約が調印され、七八年十月二十三日に発効した。七九年には廖承志さんが六百人からなる「中日友好の船」を率いて日本列島を一周され、再び中日友好の熱いブームが盛り上がった。八四年には日本の青年代表団が中国側の招待で訪中し、これまた空前の盛り上がりを見せた。
駱 中日友好は、友情だけにとどまらず、経済の互恵関係を確立することによっていっそう促進され、経済面での発展がまた友好を促進したわけですね。日本はアジア最大の先進国、中国はアジア最大の発展途上国。経済面で強く補い合っており、合作の見通しも非常に明るいものがある。
日本は、現在すでに中国の最大の貿易相手国になっています。日本の円借款も中国経済の発展に大きな推進力となっている。過去三次にわたる借款総額は一兆六千八百九億円に達し、第四次円借款の前半三年の五千八百億円もすでに協議が終わっています。ですが、円高のおかげで返済が大きな負担になり、債務がいつのまにか六八パーセントも増えた。中国を援助しようというのがそもそもの目的だったのに……
張 確かに円高は債務国の負担を重くしています。その影響を受けているのは中国だけではないし、中国以上に借款を受けている国もある。だが円高は日本にもっと大きなショックを与えていますよ。この問題は多くの国の協調が必要で、みんなで対策を考えなくちゃいけない。だが、村山首相も言っているように、これはまた日本が対中投資を拡大するチャンスでもあるんです。
孫 今までも双方がともに努力して困難を克服してきたから、中日関係がこんなに発展してきたんです。両国の関係は、いつも「一片の雲もない青空」だったわけではないが、全体としては良好だった。たまには「曇りときどき雨」もあったし、ひどいときは風雨もあったが、それでも大局に影響を及ぼすことはなかった。
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