抗日戦争勝利50周年

2023-05-26 16:20:00

 

南京1937年の悪夢

一九三七年十二月一日、南京市のあの悪夢の序幕が切って落された。日本本国からの指令を受けた中支方面軍司令官松井石根はこの日、指揮下にあった五個師団に対して三方向からの南京進攻を命じた。十日、投降勧告が無視されたと見るや全面攻撃に移り、三日間の激戦の末、十三日、遂に日本侵略軍は南京城内になだれこんだのである。

歴史上類(たぐい)まれな大虐殺

日本軍は南京進攻前にすでに捕虜殺害の命令を下していたが、南京を占領すると、捕虜に止まらず、一般人の殺害も開始した。まず郊外あるいは市内路上での個別殺人、次は何千何万の人びとを集めての集団虐殺、更には国際安全区や難民避難所からも多くの中国人青壮年が捕縛連行され処刑と称して殺された。対象は武器をすてた兵士から、年寄り、女子供、僧侶までも逃れることはできなかった。

この時の惨状を目撃した『ニューヨーク·タイムズ』紙のダーディン記者は次のように報じている。

「市内の南部と西南部には逃げ出すことのできなかった大勢の中国市民がいたが、みんな殺されていた。道路には至るところ中国人の死体がころがっていて車を進めることができず、私は何度も車から下りて死体を片付けなければならなかった」

米国聖公会のマギー牧師も極東国際軍事裁判所での証言で、「死体が累々とかさなっていて、車が動けなかった」と述べている。

殺人の方法は、銃殺、斬殺、刺殺、生き埋め、焼き殺し、溺死などあらゆる手段がとられ、こうした殺人で六週間のうちに、十九万人が犠牲になった。その中でも、十二月十八日、揚子江岸にある幕府山の草鞋峡で行われた虐殺では、一度に五万七千四百人が殺された。機関銃で掃射したあと、まだ生きている者については、刺し殺し、しかも罪状をかくすために、死体を揚子江に投げ込んだり、ガソリンをかけて焼いてしまったりしている。

現場の惨状については世界中の新聞に報じられているが、一兵士の手記―「揚子江が哭いている―熊本第六師団大陸出兵の記録」に次のようなくだりがある。

「幅の広い川面いっぱいに、おびただしい数の死体が浮かんでいた。見渡すかぎり、川岸も川の中も死体でどこまで続いているのか分からないくらいだった。兵隊だけでなく、たくさんの一般市民が、大人も子供も、男も女も、まるで川面いっぱいに並べられたいかだのように、ゆっくりと下流に流れて行くのです。上流のほうを見ると、これまた死体の山で、まったくどこまで行っても果てしない様子だった」(洞富雄著『南京大虐殺』から)

南京での大虐殺や暴行を暴露する文書、著書、写真、証言はたくさんあるがこれまで明らかになっていたものとは別に、最近、当時南京鼓楼病院に勤めていた米国のロバート·ウィルソン医師の日記が同病院で発見されたり、「中国第二歴史檔案(とうあん)館」(史料館)で、当時の広田外相が日本大使館に送った電報や南京大虐殺後の惨状を目撃した黄鈺の報告書が発見されている。これらの資料の大部分は、現場体験者が自ら書いたり、話したりしたもので、中には加害者たる日本人兵士の日記や手記、告白書があり、写真は日本軍自らが撮ったもので、これらの資料は南京大虐殺の真相を生々しく語っている。

三十万人が血の海に倒れた

日本軍が南京で三十万人以上の殺人を行ったということは、周知の事実である。戦争が終結したあと、極東国際軍事裁判所と中国戦争犯罪軍事裁判所は、この事件の克明な実地調査を行って大量の確かな証拠を手に入れ、『ポツダム宣言』第十条に則ってこの案件についての判決を下した。被害者の人数については、判決文の中で中国の裁判所が次のように確認している。

「この期間中に失われた人命は、中華門、花神廟、石観音、小心橋、掃帚巷(サオゾーシヤン)、正覚寺、方家山、宝塔橋、下関、草鞋峡などで集団虐殺された者十九万以上、中華門下の埠頭、東岳廟、堆草巷、斬龍橋などで惨殺され、慈善団体の手で埋葬された者十五万人以上、総計三十万人余に到した」

国際裁判所は、占領直後の六週間に、南京及びその付近で殺りくされた一般市民と捕虜の数は二十万人以上に達した、しかもこれには焼かれてしまったり、揚子江に投げ込まれた、あるいは他の方法で処理された数を含んでいない、と確認した。

以下は一九五四年十二月二十七日、撫順の戦犯管理所で行った太田寿男少佐の供述である。

「わたくしは十二月十五日の晩、南京下関第二碇泊場司令部に到着したあと、司令官から『安達少佐が現在死体処理をおこなっているが、きみも一緒にこの任務にあたってくれ』との命令を受けました。命令受領後、ただちに南京下関埠頭において、東西二区域に分かれて任務を遂行しました。安達は東側、わたくしは西側です。両区域あわせて、汽船三十艘、車十台、輸送兵八百名を使用、十二月十六日から十八日までの間に、わたくしのほうで処理した死体は一万九千余体、安達のほうで処理したのが一万六千余体です。それと、それ以前に安達がすでに六万五千余体を処理してますので、碇泊場司令部で処理した数は、全部で十万体以上になります。うち、三万体は埋めたり、焼いたりしたもので、それ以外はいずれも揚子江に投棄したものです。思うに、その他の部隊でも少なくとも五万体は個別に処理しておりますから、全部で十五万はあったと思います。殺された人の大多数は一般人で、老人も子どももおりました。それから、一部は抗日軍で約三万人です。わたくしが下関に来たばかりのときは、日本軍がまだ機銃掃射を続けており、弾丸を浴びた大勢の人の中には、まだ死にきれずに息をしている人をたくさん見かけました。

わたくしの手で処理した二万人近い者の中にも、三百五十人以上、機銃掃射のあとでまだ生きている者がおりました。これらについては、まず荷役用の鉄かぎつきの棒でなぐり殺させ、絶命したらそのかぎで船に積み上げ、河の中に投げこみました」

これが、判決文の中で、含んでいないとされた死者の数字である。

この時の死者の数については、南京市の人口変化からも推定できる。『南京市人口資料』によると、一九三七年六月の南京市の人口は百一万五千人であったが、日本軍の接近につれて逃亡者が相次ぎ、占領前の十一月二十三日には五十万~六十万人になっていた。しかし、大虐殺の嵐が通り過ぎたあと南京市に残っていたのは、僅か十七万人にすぎなかった。

暴行、略奪、放火

日本軍は野蛮な殺りくと同時に、暴行、略奪、放火を続けた。

南京占領後の一カ月間に、市内では二万件に及ぶ強姦、輪姦があり、当時これらを目撃した外国人は日本軍を「獣(けだもの)の集団」と形容した。

日本軍の婦女暴行は、時(とき)、ところ、老若を問わず、幼女や妊婦さえも犠牲になり、犯された後、腹を切り裂かれたり、乳房を切り落とされたりする者も少なくなかった。女性と見れば、直ちに捕まえ、民家に押し入っては「娘を出せ」と叫び、反抗すれば殺された。もっと酷いのは、女性を犯した後、家族間で乱倫させたことだ。

日本大使館の向かいにあった金陵女子文理学院は、安全区の中でもっぱら女性を収容した避難所で、約七千人が逃げ込んでいた。同学院の米国人教授ミニー·ヴォートリン女史ら三人が交代で星条旗を手に校門で見張ったのだが、それでも夜になると日本兵が塀をよじのぼって構内に侵入し、多数の女性を陵辱して行った。

今年六十六歳の夏素琴さんは辛うじて一家皆殺しを免れた一人である。日本軍が進入して来た時、彼女は八歳で、一家は祖父母を含めて九人で暮らしていた。十三日の昼前に、日本兵が家に押し入って乱暴の限りを働き、彼女も切られたり、刺されたりで気を失ってしまった。夕方気が付いて周囲を見回すと一面血の海で、何とか助かったのは四歳になる妹と二人だけだったという。

放火と略奪もいたるところで行われた。個人の住宅は言うまでもなく、団体、商店、工場、倉庫などの財産は、金銀財貨、書物、書画、骨とう品から自転車、荷車、家畜、穀物、家具、衣服、ふとん、時計、煙草、卵、万年筆、ボタンまで、使えるものなら何でも略奪した。彼らの行くところは、九〇%の家が、空(から)になり、市内の家屋は三分の一が焼き払われた。特に商店街では全焼した地域もあり、数週間たつと、南京市内はがらがらになってしまった。

略奪したものは、かなり大量に日本に運んだ。一九四六年に発表された『南京対日戦争損害調査』によると、大ざっぱに言って、損害総額は二千三百億元に達する。例えば、豪邸七百八十四棟三万一千室、器具二千四百セット三十万九千点、衣服五千九百箱五百九十万着、貴金属一万四千二百両(リヤン)六千三百点、書物千八百箱十四万八千六百冊、古書画二万八千四百点、骨董品七千三百点、家畜六千二百頭、穀物千二百石(こく)、などである。

特にみんなが心を痛めたのは、古い文化遺産が灰になったり略奪されてしまったことである。南京は「六朝の古都」といわれ、古籍や史料が豊富で、名所旧跡も数多く残っていたが、この大災厄の中で重大な損失を蒙った。たとえば、北宋(九六〇~一一二七年)時代に立てられ、清代に修築された夫子廟(フーズーミヤオ)(孔子を祭るお寺)は古代南京の文化、教育センターであり、牛首山は風致地区で、仏教の聖地として昔からのお寺がたくさんあったが、それらがすべて放火のために焼失し、牛首山ははげ山となってしまった。南京城の城壁は明代の初期に世界ではじめてレンガと石で築かれたものだが、砲撃と火災でボロボロになり、朝天宮の国宝級の鴟尾(しび)(しゃちほこの類)も盗まれた。日本軍は南京で悪事の限りを尽した。戦後、当時の指揮官の松井石根と第六師団の師団長である谷寿夫は厳しい処罰を受けた。

南京大虐殺という歴史的な悲劇から半世紀たった。戦後五十年間、中日両国の平和と友好は、両国の国民に繁栄と進歩をもたらした。今年の五月下旬には、日中友好協会と中国関係部門が中心になって南京古城壁の修復に着手した。村山富市首相は、先日日本の首相としては初めて、北京の盧溝橋にある「中国人民抗日戦争記念館」を参観し、「歴史を直視し、日中友好 永久の平和を祈る」と書き残して行った。

(本誌·鍾煒)

上一页12345下一页下5页
関連文章