抗日戦争勝利50周年
「中国人が五十年前の戦争にあれほどこだわっている理由が、私にはよくわかりません。私より若い人たちはもっと無理解です。私の疑問に対し、誌上で答えて頂きたいのです」
―今年は世界反ファシスト戦争および抗日戦争勝利五十周年に当たる。多くの国でその記念行事が行われている中で、本誌は、二十七歳の読者からこんな手紙をもらった。
彼が疑問に思う気持ちは、あながち不思議ではない。ほとんどの日本の教科書が、この部分に関する記述を不十分にしているからだ。
日本の侵略者が起こした戦争によって、中国人の死傷者は三千五百万人に上り、中国が受けた損害は一千億ドルに上った。だからこそ中国人は、この民族の受難にこだわらざるを得ないのだ。しかし、日本国民もまた、戦争によって大きな被害を受けた。五十周年という記念すべき年に当たって、われわれは、共に過去を振り返り、平和の永遠ならんことをねがいながら、この特集をお送りしたいと思う。
座談会
なぜ、われわれはこだわるか
「前事を忘れず、後事の師とす」
■出席者
張香山
中日友好二十一世紀委員会中国側首席委員·中国国際交流協会副会長
孫平化
中日友好協会会長
符浩
中日友好二十一世紀委員会中国側委員·元駐日大使
林林
中日友好協会副会長·中国日本文学研究会名誉会長
駱為竜
中華日本学会常務副会長·中国社会科学院日本研究所研究員
司会 沈錫飛
本社社長
―今年は世界の多くの国で、反ファシスト戦争勝利五十周年の記念行事が行われています。この戦争で東方の主戦場の一つとなった中国も同様で、われわれはその歴史を振り返ることによって、戦争と平和に対する思いをさらに深めています。今日は、抗日戦争の経験者で、かつ長年中日友好の仕事に携わってこられた先生方から、いろいろなお話をうかがいたいと願っております。
張 けっこうですね。歴史をもって鏡となし、過去を総括し、未来に目を向けて行こうじゃないですか!
お茶で勝利の乾杯をした
―まず半世紀前、先生方はどんな状況下で日本の敗戦をお聞きになったんでしょう。
林 私はフィリピンのマニラで知りました。一九四一年六月、私は廖承志さん(故·中日友好協会会長)に言われて香港からフィリピンに渡り、孫文夫人の宋慶齢さんの代理として、マニラでやっている秘密新聞の仕事を手伝うことになったんですね。そしたらその年の十二月に日本が真珠湾を奇襲し、日米戦争が始まった。
私たちの新聞は、ニューデリーの中国語放送を主なニュースソースにしていたんですが、これで大変危険なことになった。マニラでは華僑ゲリラの抗日運動が盛んで、日本侵略軍は中国人をとくにマークしていたから、いつ殺されるかわからない。現にルソン島中部で同志の一人が日本軍に拉致され、軍刀で切り殺されて最後は死体を四つ裂きにされた。頭上はまさにダモクレスの剣だったわけです。だからその放送で日本降伏を知ったときは、それこそ杜甫が詠んだ「漫(みだり)に詩書を巻き、喜(よろこび)に狂せんと欲す」という状態。
フィリピン人は侵略者に大変な恨みを抱いていたから、日本人と見るやワッと集まってすぐ殺していました。
張 私は、八路軍第一二九師団にいました。師団長が常勝将軍とうたわれた劉伯承さん、政治委員がほかならぬ鄧小平さん。一九四三年に太行軍区に改められ、私は対敵工作部長になった。それとともに反戦同盟(後に解放同盟と改称)の日本人同志や朝鮮独立同盟朝鮮義勇軍の朝鮮人同志といっしょに、日本軍に対する宣伝、破壊工作をやっていた。
一九四五年八月十日深夜、われわれは河南省渉県(後に河北省)の王堡村に駐在していたんだが、村の西の方で歓声が上がった。初めはオオカミかと思ったんですが(太行山はオオカミが多いんだ)、そのとき延安から電話が入って日本降伏の情報を知り、ようやく歓呼の声だとわかった。十日の時点で勝利を知ったとしても不思議じゃない。戦争はもう末期で日本軍は敗色濃厚だった。六日にはアメリカが広島に原爆を落とし、八日にはソ連軍が出兵していた。日本の軍部は「焦土作戦」「一億玉砕」を呼号していたとはいえ、すでに命脈は尽きていたんですが、こんなに早いとは意外でした。われわれ中、日、朝の三カ国の同志も歓声を上げた。だれかが、酒でお祝いだ、と言ったんだが、残念、山中の村では酒なんか売っている店もない。これでいいやと言って、お茶で乾杯したんですよ。
符 私は、山東省で渤海地区の作戦に従事していた。張香山さんと同じ仕事で、日本語の宣伝物も張さんや日本の反戦同盟の同志が協力して作ったものを使っていた。
私は日本敗戦のニュースを前線指揮部で知ったんですが、やはり突然という感じはしなかった。八日にソ連が出兵したので、われわれは落下傘部隊を迎えるため飛行場を整備しようとしていたんですが、結局何もしないうちに勝利がやってきたわけです。
敵もわが軍の動向を察知したらしく、膠済線(青島―済南を結ぶ鉄道)以北数県の日本軍や傀儡(かいらい)軍はみな済南に逃走し、武器を渡そうとはしない。だが侵略日本軍の司令官岡村寧次は国民党の軍隊に投降し、彼らと対峙していたわれわれ抗日軍民に降ろうとはしなかったので、それを追撃し、また解放同盟の日本同志たちが呼びかけたりして、われわれに投降させたんです。
孫 私は、傀儡「満州国」のハルビン銀行の職員と身分を偽って地下抗日工作をやっていた。八日にソ連が出兵し、関東軍は抗戦し防空対策を講じた。私の同僚がいて、これが傀儡「満州国」の総理の甥なのに抗日分子なんだね。彼と私は銀行の同じ宿舎に住んでいたんだが、二人とも屋外にござを持ち出して寝たんです。「ぼくは防空壕なんかには入らん。滅ぼされた祖国が復活するのを見ることができるんだから、空襲で焼け死んでもいいんだ!」と彼は言うんです。私も全く同じ気持ちでした。
思い起こせば一九三一年の九·一八事変(日本で言う満州事変)のとき、私はまだ中学一年生でしたが、日本の軍隊が瀋陽の北大営を攻撃し、その砲弾が教室の上を飛んでいった。年少のころから始まって十五年に及んだ亡国の民の苦しい日々が終わり、いまようやく勝利の日を迎えようとしている……、ですから東北の人間は八·一五を「光復の日」と呼び、みんな町に飛び出し歓呼の声をあげてソ連軍を迎えたんです。まもなく私の身分が明かされ、私は傀儡「満州国」の軍医学校に行ってそこの学生を組織し、その後、この学校を共産党に渡したんです。
駱 私はここにおられる先生方よりはずっと後輩で、八·一五のときはまだ子どもでした。本籍は杭州なんですが、生まれたのは青島で、すでに占領されていましたから、生活はとても苦しく、マッチ一本に至るまで配給だし、ドングリの麵なんかニワトリだって食べようとしなかった。日本人は東洋市場に行ってトマトでも油揚げでも買ってましたが、中国人は入れてくれません。子どもだから何もわかりませんでしたが、ただ奴隷化教育はいやでした。それに毎週土曜日は午前が「勤労奉仕」で草取りなど、午後は「輝かしい皇軍」のニュース映画を見させられました。
「光復の日」以後、もちろんそんなものはなくなりました。それまでわれわれに横暴を働いていた日本人がしょんぼりしてしまって、中国人はみな欣喜雀躍です。しかし私の家は、心底から喜ぶことはできなかった。というのも上の兄は抗日戦争の前線で戦死、下の兄は空中戦で行方不明になりました。だから私は戦争を、そして日本人を心から憎んだ。後に北京大学で日本語を学び、張香山先生の書かれた本を読み、孫平化先生のお話を何度かうかがううちに、たくさんの日本人民と戦争を起こした者との区別がだんだんつくようになったんです。
「和を貴しと為す」を痛感
―二千年に及ぶ中日文化交流史を見るとき、一衣帯水の両国民は戦争など起こしてはならなかったと思うんですが。
駱 最近、ある歴史学者の本で知ったんですが、徐福が日本に行ったかどうかは別として、日本には「秦人」起源説というものがある、つまり秦漢の時代にたくさん日本に渡ったということは肯定できる、と。
符 徐福の研究は、中国より日本の方が盛んだね。日本人の三分の二は秦人の後裔だと考証した人もいます。二つの民族がどれほど血縁関係を持っているかはわからないが、似ていると思う所が多いのは間違いありませんね。
林 文化交流が一番盛んだった唐代には、多くの遣唐使が中国に来ましたし、李白と晁衡(阿部仲麻呂)の親交も有名です。鑑真和上が大変な困難を乗り越えて日本に渡った佳話もある。中国と日本くらい古く、そして深く関係を発展させた例は、世界でもそう多くはない。
張 日本の近代は、明治維新を経て封建社会から資本主義社会への転換を図り、かなり封建的要素を留めた資本主義国となり、国力の強化とともに中国を侮り始めた。甲午戦争(日本で言う日清戦争)で中国を破った後、日本は一八九五年に下関条約をつきつけ、白銀二億三千万両(後に五千万両を追加)の賠償金を強要した。これは当時の日本の七年分の財政収入に当たる。清帝国はこれで再起不能に、日本はさらに強大となり、中国侵略の野望を大きくして、ついにあの全面的侵略戦争に至ったわけだ。
符 四十年前、私は孫平化さんと日本に行きましたが、当時の日本は実に寂しかった。その後、駐日大使となり、廖承志さんが率いる友好の船代表団に付き添って下関条約が結ばれた春帆楼をわざわざ訪れ、大いに感じるところがあって、『下関感事』という詩を作り、「駅路羞(は)じて過(よ)ぎる引接の寺車を駆り恥じて上る春帆楼」と詠んだんです。
張 一九六二年秋、私は春帆楼を訪れて痛飲したことがあるんですが、符さんと違って、そのとき私は恥をすすいだと思った。新中国成立後はもう侵略を許していませんからね。
駱 一八九四年の甲午戦争勃発から抗日戦争の勝利まで、中日の敵対関係は五十年続きました。一八七四年の台湾武力侵略から数えれば七十年です。だがこれは、二千年の友好交流史からすれば、ほんの一瞬に過ぎない。軍国主義者が侵略戦争を起こしたため、両国人民は甚大な被害を受けましたが、「和すれば両(ふた)つながら利あり、戦えば倶(とも)に傷つく」という真理を、両国人民がともに理解するようになってきましたね。
符 「和を貴しと為す」―苦難の末に、この有名な『論語』の言葉がようやくわかったんですよ!
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